色々変わったり知ったりわかったり。
「あら?」
一人だけ戻ってきたレンを見て、メイコは首をかしげた。
「カイトは?」
「知らない」
機嫌が悪いようだ。喧嘩でもしたのだろうか。
「喧嘩?」
「あんなヤツのことなんか知らねぇよ」
やはり喧嘩か。ミクとルカの事もあるのに、また悩みの種が増えてしまった。なぜこうも面倒事ばかりが舞い込むのか、困ったものだとため息が出た。
レンは、テレビ前に陣取っているリンとルカを見て、まだ番組は始まってないのかと聞いた。
「CM中よ。とはいっても、出番はまだ先」
「じゃあ間に合ったのかな」
「そうね」
メイコが返事をした時、ミクがキッチンから出てきてレンに紅茶が入ったカップを渡す。
「インスタントでごめんね」
「いいよ。ミク姉、ありがと」
ミクは感謝されてうれしそうに笑った。今はルカの事もあるため不機嫌でいる事も多いが、本来ミクは笑顔の多い人物なのだ。それを知っているだけに、メイコもレンも今の状態が正常だとは全く思えない。どうにかしようと思ってはいるが、中々事態は進展していなかった。
CMは終わったが、まだ別の歌手が画面には出ている。先週の音楽チャートで、ミクの新曲と首位争いをしていた歌手だった。
「この人、声かっこいいよね。私はこういう声出せないからうらやましいな」
争っていた当人であるミクがそうやって褒める。彼女は他人を褒める事を躊躇しない。本心だからなのだろう。
「確かに、ボーカロイドにはあまりない声よね。少しガナる感じの声というか」
「パワフルだよねー」
「ボーカロイドは性能的に、ブレの多い声を出すのは苦手なんだよな」
メイコもミクもレンのつい音楽に関しては真剣に見てしまう。流し見でテレビを見ていても、音楽番組になるとどうしても歌い方や演奏に目が行くのだ。ボーカロイドの性であろう。
「しかしまあ、遅いわねぇ」
「カイトなら用事あるから先食べてて、だってよ」
メイコのつぶやきにレンはぶっきらぼうに知っている事を口にする。
「あら、博士の話よ。ま、そっちも了解したわ。ふふふ」
知ってるじゃないのとメイコはからかう口調でレンに言った。レンは顔を赤らめた。耳まで赤くなっている。
「か、勘違いなら誰にでもあるよ」
慰めるため、ミクは握りこぶしを作って力説している。むしろその慰める態度が恥ずかしさを増幅させているのだが、ミクは気が付かないし周りも指摘する事はなかった。レンは穴でも掘って埋まりたい気分である。
メイコが遅いと行ったからなのか、単にタイミングがよかったのか、すぐに一人分の足音が聞こえてきた。駆け足でリビングに向かっているようだ。玄関の方から聞こえてきたのを考えると博士だろう。次第に音が近づいてきて、扉が開く。
案の定、博士が息をせき切らして立っていた。
廊下を走るなといつも言っているのは博士なのに、本人が破ってどうするんだとレンは思った。
「カイトは?」
開口一番、ここにいない彼の名前を呼んだ。
「知らない」
レンはまたもそのように答える。メイコは苦笑して、自分の部屋みたいですよと言った。
「ああまた篭っ……いや今回は都合がいいか。でもこれは考えものだなぁ。どうしたもんかなぁ」
などと独り言を言い、ありがとうとメイコに言ってからまた駆け出した。カイトの部屋に行くのだろう。
「博士ー、ご飯はどうしますかー?」
廊下に顔だけを出し、博士の後姿にメイコは大声で投げかける。
「すぐ戻るよ~」
「了解ー。……なんなのかしら」
「なにか急ぎの用事かな」
「カイトに急ぎの用事が発生すると思うか?」
レンは意地悪な質問をする。ミクは曖昧に笑って、わからないけど何かあるよと言った。たぶんという単語を付け加えるのを忘れなかった。
そうこうとしている間に目当ての時間になった。
「あ、ルーちゃんでるみたい!」
うきうきとしているリンが画面を指さした。
確かに、出番が来たようだった。
レンは少し顔を緩めてソファの方に、ルカに近づく。ソファの背もたれに手を置くと、ルカと何か話し出した。メイコとミクからは少し遠くて聞こえないが、レンの性格的に、不器用な言葉を贈っているのだろう。
メイコは横にいるミクを覗き見る。意外と、敵意を持って見てはいなかった。ただ、少しぶすっとしているのは仕方のないのだろう。素直に祝福できないだけだ。
言い方は悪いがミクにとってルカは初めてできた‘敵’である。許せない相手、というのが正しいのかもしれない。ミクは昔から他人を否定したり恨んだりという事がなかった。それだけに、ルカに対する態度は奇妙に思える。特別、逆鱗に触れる何かかあるのだろう。
許してしまえば一気に仲良くなるんじゃないかしらと、メイコなどは思うが、何が特別なのかよくわからないので、困り所だ。
そして、とうとうルカが画面に出てきた。緊張した面持ちである。テレビ画面を見るボーカロイドたちも一様に緊張していた。
画面の中の彼女は自己紹介をすると、ぎこちない笑顔を浮かべた。ぎこちなさがむしろ自然体に見えて、彼女が仕事でやっているのと同時に、好きでやっているのだとわかる。
黒と金のドレスを纏ってステージに上がる。曲の前奏が鳴り響く。ライトがきらきらとドレスの装飾に反射して、まるで星のような輝きのようだ。
歌が始まると、ルカの口から詞が紡がれる。少し掠れ、女性ボーカロイドにしては低めの声だ。鳴り響く低音と、ハスキーな歌声が見事なハーモニーを生み出している。
ルカは、うれしそうに、楽しそうに、充実した表情で歌う。歌うために作られた彼女は、歌う瞬間こそ満たされる。その幸せな雰囲気は、見るものの心を動かす。
「きれい……」
リンがつぶやく。レンも同意するように画面に集中していた。メイコはうれしそうにルカたちを見ている。見守るようにも思わせる表情だった。
そして、ミクはと言えば、なぜか悲しそうな顔をしていた。
今、この歌は、番組を見ている人を感動させているのだろう。この声を好きだという人は大勢居るはずだ。きっと、彼女も人気が出る。それはいい事だ。幸せなことで、幸福で、それなのにミクは悲しかった。胸がドクドクとこみ上げる感情を伝えている。
あそこには行けないカイトの事を思うと、悲しさが止まらないのだ。彼女のそこにいる事が、そこで歌っている事が、どうしても悲しく思えた。
ルカは自分に課せられた使命の通りただ歌っているだけで、非は少しもない。なのにこんな、不公平で不平等で悲しい事があるなんて。
他人が歌っている場面を見る事が辛いと、初めて思った。いつもはこんな風になんて絶対に思わない。人の歌だって聞くべきものや見るべきものが少なからずある。歌に対しては真剣になるボーカロイドなら、歌が辛いなんてありえない。そのはずなのに、今すぐここから逃げ出したいと思う。
彼女は悪くない、全く非はない。ルカはルカなりに頑張っていて、それくらいはミクにもわかっている。
そうして、ルカは成功するだろう。歌を、あの場所で、幸せに歌って……。
そこまで考えて、ミクはわかった。わかってしまった。‘ルカに一番近いのはミクなんだよ’と、カイトは言った。その言葉の意味がわかってしまった。
同じだ。ミクは初めから成功が約束されていた。大々的なプロモーション、起動前から組まれていた仕事のスケジュール、充実した施設に、好意的で腕のいいスタッフ。ミクは起動する前から恵まれていた。
敷かれたレールを不満なく走る。そうする事が使命だと胸を張って、ひたすらに歌を歌ってきた。
そんな自分自身と、ルカはよく似ている。似すぎている。
そこらじゅうの光を集めたかのように、歌っているルカは輝いていた。自分の環境に疑問なんてなく、当然のように。
自分もきっとこう見えるんだろうとミクは思った。
なら、この悲しい気持ちは、いつも歌っているミクを見ていた者の感情で……。
「……カイト兄さん、ごめんなさい……」
知らず内に声に出していた。横にいたメイコが何事かとミクを見る。そのメイコの視線にも気が付かず、ミクは下を向いてそっと一筋の涙を流した。
ミクの変化など気付きもせず、ルカは自らの姿を見ていた。
収録をしていた時はどんな風になるのか不安だったが、ちゃんと撮れている事にひとまずほっとした。歌も悪くない、と思うのは自意識過剰だろうか。
先輩であるリンが言うには、駄目な所と良い所を洗い出して次に繋げるべきだそうである。とりあえず、それを実行しようと画面を注視する。この腕の振りは曲に合ってない、変えないと。それからもっとここは強く歌うべきだわ。そうやって、ルカはなるべく客観的に自分を見るようにした。
なるべく冷静にと思っていたはずなのに、いつの間にか胸の辺りが熱くなっている。耳と鼻と目の辺りがむずむずと熱を帯びて、気温が上がったわけでもないのに汗が出てきた。
泣きそうなんだと頭のどこかでルカが言った。泣いていいと胸に辺りにいるルカが言った。そんなことをしている場合じゃないと頭上に見えるルカが言った。
声が沢山聞こえて混乱する。きっと冷静になれないのはそのせいだ、決して感情的になっているわけじゃない。そうルカは思いたかった。
画面の向こうの自分は、歌を歌う幸福感と、役割を果たせた満足感で一杯だ。そして、それを見る自分自身も影響される。引っ張られる。
映像を見る前は、こんなに幸せな事だと思っていなかった。辛いくらいに胸が一杯になるなんて思っていなかった。ボーカロイドが歌を歌うなんて当たり前の事だ、だから感情的になんかならないとルカは思っていた。
それなのに、これから当たり前になるのに、こんなことでぐらついている訳には行かないのに。どうにか収集をつけようとルカは試みる。
曲も終盤に差し掛かった。ルカの混乱も最高潮に達している。
その時、隣に座っていたリンが、ルカの腕を肘でつついてきた。ルカは必死で頭の中を整理しながらリンの方に向いた。リンは満面の笑顔だった。
「よかったね、ルーちゃん」
そんな単純な一言を言われただけなのに、ルカの感情は溢れてしまった。
はらはらと音を立てて涙が零れ落ちる。
後ろにいたレンが、大丈夫とも声が掛けられないくらいに慌てている。リンは少しだけ慌ててからハンカチを出してきたが、今はそれを受け取るという行動さえできない。せき止められない感情が、理性の器なんか壊してしまった。
止められない思いが錯綜する中で、僅かに残った理性がこの感情の名前を掴む。
本当にうれしいという感情がどういうものか、ルカは初めて知ることができたのだ。
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