内容があるようなないような。
大地の色と同じく、レンの頭の中は真っ白になった。
耳の中で響くのは荒々しく吹く風の音だけだ。白い砂がレンの頬にぶつかる。多少痛い。煩わしいと言うのが正しいのかもしれない。
「なんだこれ」
声さえ風に掻き消えた。口を開けたために砂が中に入ってくる。ジャリジャリとした感触が不快だった。
「なんだよ、これ」
発した言葉は少し震えていた。目の前の景色を信じられない。焦燥感に似た感覚がレンを襲う。どうやら、脳はやっと状況を理解し始めたのだ。
まず考えたのはリンの事だった。安否を確かめなければと考える脳は、普段よりずっと鈍く、レンを苛立たせた。そもそもこの状態はなんだ、まさか知らないうちに世界が滅んだとかそんな事が、まさか。だけど見えるものは嘘をつかない。研究所の周りにあった筈の家もマンションもビルも消えて、ただ一面、砂の世界が広がっていた。海ではないのに地平線が見える。仕事で行った臨海公園から見た地平線とは違う、大地の最果てが見えるのだ。
手すりまで駆け寄る。屋上の一番端まで走り、手すりから身を乗り出して下を見た。研究所の正面門が見える。コンクリートでできた門と玄関を繋ぐ道、その脇は段差で区切られ、芝生と庭木が見えた。塀の外は砂塵が舞っているのに、塀の内側には緑色が健在だ。レンは本人の知らぬうちに、はははと短く乾いた笑い声を上げてしまった。その光景の寒々しさに、声を出さなければ平静を保てなかったのだ。
上方から見た限り、敷地内にも動く生物は見えない。敷地の外となれば、物陰さえなかった。レンが呆然としたのも無理はない。誰しも一人だなんて思いたくはないのだ。
何か祈るように空を見上げる。天に昇る太陽の位置はちょうど頂点あたりで、正午だとレンは思ったが、正確に測ったわけではない。ぼんやりとした円だ。曇っているわけではないが、空中の砂のせいだろう、フィルターが掛かったようにぼうっとしていた。しかし、確かに昼であり明るいのだ。起きたときに部屋の中が暗かった理由がよくわからない。それに、廊下にだって少ないが窓はあるし、そこから見た景色も、景色も、景色も?
「外、見たっけ」
見ていない。
「もしかして、明るくなったのに気が付いてなかっただけか?」
廊下を歩いているうちに、外は昼になっていた。時間を考えればおかしいが、そうとしか思えない。
「いや待てよ、窓に外側から板が打ち付けられていたのだとしたら、でも、リビングが少し明るかった。あれは月明かりだ。じゃあ、正午というのが違う?うーん」
すっかり説明が付かない。小一時間そこで脳をフル回転させていた。しかし何もわからないし思いつかない。そのうち砂が首と襟の間辺りに溜まって痒くなり始めたので、レンは屋内に戻る決意を固めた。一度振り返ってから内側に入る。閉めた扉は、風圧の関係だろう、やたらと響いた。
やはり建物の中は暗闇だった。今は頼りにするしかない懐中電灯を握り締め、レンは階段を下りる。足取りは重く、慎重だ。
歩きながらも、ある可能性が脳内で浮上していた。ボーカロイドとしては、考える事さえないはずの可能性。オカルトなんてものをレンは信じてはいないが、この奇妙な状況をすんなり説明できるのはそれくらいだ。まさか、まさかと、何度も精神回路の理性を司る部分が繰り返している。ありえない。なのに、レンを作り出した科学の理では、到底説明が付かなかった。
焦燥感と、何か内から湧き上がるざわざわとした感覚が、レンの精神を支配し始めた。寒気と耳鼻の奥を刺激する感情。心細い、もっと言えば、怖いという感情だった。こんなにも不安になったのは生まれて初めてかもしれない。
気を取り直して歩き出す。今は事態の把握が先決だ。研究所の中を見て回ろう。あまり期待はできないが、電気に関してはブレーカーが落ちているだけかもしれない。そういえば、非常用電源があると博士が言っていた気がする。
二階に移動すると、すぐに廊下の窓を調べた。レンは窓の外を二三度見直して目を擦る。驚愕で声も出ない。窓には板が打ち付けられたりはしていなかった。なんと、ガラスに隔てられた外界は完全に夜だったのである。
嘘だろうと彼は口にした。あまりの事にめまいがする。だが、確かに見えるのは、群青をより深めた夜空と、空に浮かぶ黄白色の満月である。一欠けもない完全な円形は、淡々と夜闇の中で輝いている。
身震いした。不気味だった。なぜ月があるのか、どうして夜なのか。屋上に出た時は確かに昼だったのに。レンは目を張り辺りを見回した。研究所だと思っていた場所が、まるで違う場所のように思える。少なくと、自分の知っている研究所は、こんなに不気味な場所ではない。ここはどこなんだろう。
レンは各部屋を見て回ったが、誰もいないし、真っ暗で電気が通っていないというところ以外は、普段と同じ研究所の風景だった。最終的にリビングに戻ってきたのは、疲れたからだ。考えてみれば、飲料も摂取していない。お腹もすいてきた。エネルギーを体に蓄えているけれど、取れるときに取っておきたい。
リビングから繋がるキッチンに行き、蛇口を捻る。水は出てこなかった。こうなる事を予想していたレンは、もう驚く気力すらなかった。ため息をついて、レンは天を仰いだ。その時、ふと気が付いた。
そういえば時計がない。リビングには壁掛け時計があったはずなのに、それがないのだ。外されている?いや、それよりも、いつなのかわからないにも関わらず、時計を探そうとしなかった自分に驚いた。
そこらじゅうを見て回ると、時間を表示するようなものが何一つない。いよいよもってわけがわからない事になった。
リビングのソファに腰掛ける。元いたところに戻ってきた形だ。盛大にため息をついて、窓の外を見た。大きなガラスの向こうは、確かに夜だった。暗いが、ぽつんと浮かぶ月はやたらと綺麗だ。リンに見せたいと思った。ミクにも、メイコにも見せたいと思った。そしてルカにも、カイトにもだ。誰もいないのは寂しいし、居心地はひどく悪い。正直、こんなところにはいたくない。
ため息が出る。歩く体力はあるが、気力はない。疲労はレンの動きを止め、ソファの上に寝そべらせる事に成功した。疲れと、その他多数の要素によって、全てを投げ出したい気分に襲われる。
そして、彼は瞳を閉じた。
まぶしさにふっと気が付いて瞼を上げる。照明はまぶしい。レンは上半身を起こして、扇風機が首を振るように顔を動かした。いる場所は変わらず、研究所のリビングにあるソファである、が、それまでと違う点がいくらかあった。まず、電灯がついている事、そして、メイコがいた事である。
レンが起き上がった事に彼女は気付き微笑みかける。
「おはよう。疲れてた?」
そう言われたレンは、数秒遅れて自分が寝ていた事を知覚した。そうなると、今まで見ていた研究所は、つまり。
「夢、か」
考えてみれば当たり前だ。あんな場所、夢の中以外ありえない。そりゃあ当然だよなとレンは自分を嘲るように笑った。メイコは笑顔のまま首を傾げている。もちろん、レンが笑った意味など知る由もない。
「疲れてたかも」
「そう?まあ、そんなとこで寝てちゃ、疲れるかもね。寝る時はちゃんと自分のベッドで寝なさい。疲れ、取れないわよ」
「うん、でも、なんかすっきりした」
変な夢だった。違う世界の、研究所の中をさ迷う夢。面白いもので、夢の中にいた時は、これが夢だとは微塵も思わなかった。そういうものなのかなとレンは思って、立ち上がった。時刻は夜八時、そろそろみんな、帰ってくる時間だ。少しそれが待ち遠しいと彼は思った。
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