『アンドロイドは電気羊の夢をみるか』文章保管用ブログ。
Posted by ささら - 2009.10.03,Sat
ルカの話。
巡音ルカファーストコンサート。そう書かれた長方形の紙を見つめ、チケットに書かれた名前を持つ女性型ボーカロイドは、長い長いため息をついた。人工肺から出る空気の塊は、計算された一定の構成でしか吐き出されないはずだが、普段より二酸化炭素が多い、そんな気分だった。
彼女のため息の理由は、昨日まで遡る。
チケットの先行予約が始まったと聞き、彼女はこっそり頼んでいた二枚を受け取った。初ライブの券が手に入るのを今か今かと楽しみにしていた彼女は、いつもの無表情で、内心は意気揚々と帰宅したのだ。そこまではよかった。
しかし、前もって休日にしていた今日の朝になって、自らの無策に気が付いた。
C社のボーカロイドは例外なく研究所で生活する。必要なものは支給され、環境のほぼすべてを管理されるのだ。それが悪いわけではない。アンドロイドやボーカロイドにとって、悪影響を及ぼす人間や環境は存在する。事実、ルカはそのような状態に置かれた事があったため、博士たちのコントロールに疑念はなかった。
ともかく彼女は、この状況になって、現在必要であり、持っていないものの存在に気が付いてしまった。
手紙を送るための道具、封筒を持っていなかったのである。
まず、彼女たちは手紙を送る習慣がない。基本的に博士や所長といった人物が仲に入るため、自主的に単独で取り得る連絡手段がないのだ。携帯電話は持つのを禁じられいて、研究所内での電話を使うくらいしかない。電子メールは博士が内容を確認し、相談して返信する。それも、大抵は博士が作成してしまう。公衆電話という手もあるが、少なくとも彼女は、管理者を騙す真似をする気は毛頭なかった。そんなわけで、彼女は手紙に必要な道具を何一つ持っていないのである。知識でさえ、封筒と手紙本文と切手が必要、程度しか知らなかった。
使うアテがなかった今までは、まったくもって問題なかったのだ。彼女、もしくは彼女たちは、研究所以外の人間と深く付き合う事が珍しく、はっきり言ってしまえば、外部との関係がひどく希薄である。アンドロイドの研究者や、仕事で関わった人間などが、まれにその方針をやんわりとながら批判するものの、当の彼女たちはそれが当然だと思っていたため、現状覆りそうもない。研究所の主任である山田博士は、ボーカロイドが外に興味を持つ事に肯定的だが、彼も勤め人であり、そして最近の出来事から、慎重にならざるを得ない。誰かに手紙を送りたいとルカが博士に言えば、小躍りしながら封筒と便箋と切手を用意するのは確かだろう。ただ、博士は本人が望まない限りは勧めもしないだけである。自主性を重んじていると見るか、放任と見るかは人により分かれるところだ。
研究所にいるボーカロイドとしては珍しい、もしかしたら初かもしれない意思と望みを持った彼女は、眉を中心に寄せた表情のまま固まっていた。イスに浅く腰掛け、ピンと背筋を張った姿勢で、チケットをひたすら睨む。
その程度のもの、すぐ近くの店に売っているのは知っていた。しかし、買いに行くわけにはいかない。外出は制限されているし、そもそも、彼女は博士の手を借りたくないと思っていた。手紙を送る事と、送りたいと思った事を伏せていたいのである。博士たちに不満や不安を持っているなどある筈もないが、しかし彼女はこの件について、誰にも明かす気はなかった。
封筒くらいどこかにあるはず、そう思い、ルカは研究所の中を探す事にした。シンプルな内装の自室、その一角にあるイスから立ち上がり、目の前のデスクの袖引き出しの一番上にチケットを入れると、彼女は両手をだらりと下げて深呼吸をした。吸う吐くを何度か繰り返し、ぐっと手の平を握る。そして、何に対してでもなく頷き、彼女は部屋を出て行った。
廊下に出て、まず考えたのがリビングである。普段共用で使うものは、大抵あそこに保管してあるはずだ。プランターの横にあるプラスチックでできたケース、あれの引き出しに入っているかもしれない。部屋に到着した彼女は、早速探索を開始した。
朝と言うには少し遅く、時間は十時を回ったあたりである。今日は明るいものの曇りという微妙な加減で、発光しているかのような白色の雲によって、太陽の輪郭はすっかり隠されてしまっていた。
ここ数日は快晴ばかりだったのに、珍しい日だなと彼女は思っていたが、朝食時にちょうど放送されていた予報によると、午後は晴れ間が覗くらしい、そう人間のアナウンサーがにこやかに喋っていた記憶を思い出す。たしか、つい先日まではアンドロイドが担当していたコーナーだが、何があったのか、人間の女性へと変更された様子だった。博士曰く、とても面倒な話で社としては関わりたくはないと言う。気にはなったが、無理強いして聞くものでもないと、その時は口を結んだ。懸命な判断だったと思う。
電話のすぐ隣りに透明な箱が置いてあり、中になにやら子供向けロボットの人形が見えた。箱には紙が張られ‘博士の私物’と書いてあった。どうやらそうらしい。博士らしいおもちゃだと彼女は思わず笑みを浮かべた。部屋の端に本が無造作に重ねられているのを見て、崩れそうだと心配になった。だが、杞憂だった。なぜかきちんとストッパーが添えてあったからだ。コーヒーテーブル横のマガジンラックに、車の雑誌が入っている。誰が読むのだろう、博士はあんな趣味があったかしら、そんな事を彼女は考えた。そしてテーブルの上には、書類が無造作に放置されていて、手が止まってしまった。少し中身が気になるが、覗き見は厳禁、それがマナーだと、彼女は自らに言い聞かせて他を当たる。
馴染みのある部屋のはずなのに、初めて気が付いた事象の群れに、ルカは心躍っていた。普段何気なく過ごしていた部屋をまじまじと調べるのは、研究所に来て以来初なため当然である。それにしても、言い方は悪いが、まさか自分の住んでいる場所を漁るなんて事になるとは思ってもいなかった。なんだか遠くに来てしまった、彼女はそんな風に思った。
しかし、探し物は影も形も見えず仕舞いで、リビングを粗方探し終えた。抜けがないか見回すが、秒針の音が響くだけである。
この部屋を諦めて、別の場所を探す事にした。そして、戸を開けて廊下に出ようとした時、黄色が目に飛び込んできて、足を止めた。
「ルーちゃん、おはよう。今何か用事ある?」
いつからそこにいたのだろうか、ルカと同じく第二世代のボーカロイドである鏡音リンが、リビングを覗いていた。愛らしいくりくりとしたひよこ色の瞳が、明るく無邪気な笑顔を演出する。ルカにとっては先輩に当たるが、外見年齢はルカより幼い。
「先輩。何でも、いえ、何もしてません」
「じゃあ暇だったらわたしの手伝いして欲しいの、だめかな」
自らの言動により、いいえと答える事はできなかった。まったく、考えてから喋るものである。
「何をすればいいのですか?」
「探し物手伝って欲しいんだ」
リンは一層の笑顔を作り、強く口の両端を吊り上げた。すぼめた形は、何かを企んでいるようである。
「開発部にね、手紙を出したいの。それで、封筒と便箋を一緒に探して欲しいなって」
思わぬ事に、リンの目的はルカと同じだった。リンの顔まじまじと見つめて、どうしてですかと聞く。すると、リンはこう答えた。
「田中博士たち、すぐいなくなっちゃったでしょ。一応お世話になったから、ちゃんとそういうの、やっとこうって思ってさ。実は、わたしというより、ミク姉の提案なんだけど」
そうなのかと、表情筋を緊張させた顔で彼女は頷いた。こわばった顔をしている理由をリンは考えたが、結局わからない。仕方がないので首を捻って目で訴える。しかし、どうしたのと聞きたそうにしているリンを、ルカは気が付かないふりでやり過ごす。駆け引きにも至らない素直なやり取りだ。
「じゃあ、とりあえずリビング探すの手伝って欲しいな」
もう既に探しましたとは言えず、ルカは了承した。プライドの存在を、彼女ははっきりと自覚して短いため息をつく。だが仕方ない。こういう性格なのだ。初めて起動した時から、ずっと。
次:封筒が欲しいと彼女は言った2
彼女のため息の理由は、昨日まで遡る。
チケットの先行予約が始まったと聞き、彼女はこっそり頼んでいた二枚を受け取った。初ライブの券が手に入るのを今か今かと楽しみにしていた彼女は、いつもの無表情で、内心は意気揚々と帰宅したのだ。そこまではよかった。
しかし、前もって休日にしていた今日の朝になって、自らの無策に気が付いた。
C社のボーカロイドは例外なく研究所で生活する。必要なものは支給され、環境のほぼすべてを管理されるのだ。それが悪いわけではない。アンドロイドやボーカロイドにとって、悪影響を及ぼす人間や環境は存在する。事実、ルカはそのような状態に置かれた事があったため、博士たちのコントロールに疑念はなかった。
ともかく彼女は、この状況になって、現在必要であり、持っていないものの存在に気が付いてしまった。
手紙を送るための道具、封筒を持っていなかったのである。
まず、彼女たちは手紙を送る習慣がない。基本的に博士や所長といった人物が仲に入るため、自主的に単独で取り得る連絡手段がないのだ。携帯電話は持つのを禁じられいて、研究所内での電話を使うくらいしかない。電子メールは博士が内容を確認し、相談して返信する。それも、大抵は博士が作成してしまう。公衆電話という手もあるが、少なくとも彼女は、管理者を騙す真似をする気は毛頭なかった。そんなわけで、彼女は手紙に必要な道具を何一つ持っていないのである。知識でさえ、封筒と手紙本文と切手が必要、程度しか知らなかった。
使うアテがなかった今までは、まったくもって問題なかったのだ。彼女、もしくは彼女たちは、研究所以外の人間と深く付き合う事が珍しく、はっきり言ってしまえば、外部との関係がひどく希薄である。アンドロイドの研究者や、仕事で関わった人間などが、まれにその方針をやんわりとながら批判するものの、当の彼女たちはそれが当然だと思っていたため、現状覆りそうもない。研究所の主任である山田博士は、ボーカロイドが外に興味を持つ事に肯定的だが、彼も勤め人であり、そして最近の出来事から、慎重にならざるを得ない。誰かに手紙を送りたいとルカが博士に言えば、小躍りしながら封筒と便箋と切手を用意するのは確かだろう。ただ、博士は本人が望まない限りは勧めもしないだけである。自主性を重んじていると見るか、放任と見るかは人により分かれるところだ。
研究所にいるボーカロイドとしては珍しい、もしかしたら初かもしれない意思と望みを持った彼女は、眉を中心に寄せた表情のまま固まっていた。イスに浅く腰掛け、ピンと背筋を張った姿勢で、チケットをひたすら睨む。
その程度のもの、すぐ近くの店に売っているのは知っていた。しかし、買いに行くわけにはいかない。外出は制限されているし、そもそも、彼女は博士の手を借りたくないと思っていた。手紙を送る事と、送りたいと思った事を伏せていたいのである。博士たちに不満や不安を持っているなどある筈もないが、しかし彼女はこの件について、誰にも明かす気はなかった。
封筒くらいどこかにあるはず、そう思い、ルカは研究所の中を探す事にした。シンプルな内装の自室、その一角にあるイスから立ち上がり、目の前のデスクの袖引き出しの一番上にチケットを入れると、彼女は両手をだらりと下げて深呼吸をした。吸う吐くを何度か繰り返し、ぐっと手の平を握る。そして、何に対してでもなく頷き、彼女は部屋を出て行った。
廊下に出て、まず考えたのがリビングである。普段共用で使うものは、大抵あそこに保管してあるはずだ。プランターの横にあるプラスチックでできたケース、あれの引き出しに入っているかもしれない。部屋に到着した彼女は、早速探索を開始した。
朝と言うには少し遅く、時間は十時を回ったあたりである。今日は明るいものの曇りという微妙な加減で、発光しているかのような白色の雲によって、太陽の輪郭はすっかり隠されてしまっていた。
ここ数日は快晴ばかりだったのに、珍しい日だなと彼女は思っていたが、朝食時にちょうど放送されていた予報によると、午後は晴れ間が覗くらしい、そう人間のアナウンサーがにこやかに喋っていた記憶を思い出す。たしか、つい先日まではアンドロイドが担当していたコーナーだが、何があったのか、人間の女性へと変更された様子だった。博士曰く、とても面倒な話で社としては関わりたくはないと言う。気にはなったが、無理強いして聞くものでもないと、その時は口を結んだ。懸命な判断だったと思う。
電話のすぐ隣りに透明な箱が置いてあり、中になにやら子供向けロボットの人形が見えた。箱には紙が張られ‘博士の私物’と書いてあった。どうやらそうらしい。博士らしいおもちゃだと彼女は思わず笑みを浮かべた。部屋の端に本が無造作に重ねられているのを見て、崩れそうだと心配になった。だが、杞憂だった。なぜかきちんとストッパーが添えてあったからだ。コーヒーテーブル横のマガジンラックに、車の雑誌が入っている。誰が読むのだろう、博士はあんな趣味があったかしら、そんな事を彼女は考えた。そしてテーブルの上には、書類が無造作に放置されていて、手が止まってしまった。少し中身が気になるが、覗き見は厳禁、それがマナーだと、彼女は自らに言い聞かせて他を当たる。
馴染みのある部屋のはずなのに、初めて気が付いた事象の群れに、ルカは心躍っていた。普段何気なく過ごしていた部屋をまじまじと調べるのは、研究所に来て以来初なため当然である。それにしても、言い方は悪いが、まさか自分の住んでいる場所を漁るなんて事になるとは思ってもいなかった。なんだか遠くに来てしまった、彼女はそんな風に思った。
しかし、探し物は影も形も見えず仕舞いで、リビングを粗方探し終えた。抜けがないか見回すが、秒針の音が響くだけである。
この部屋を諦めて、別の場所を探す事にした。そして、戸を開けて廊下に出ようとした時、黄色が目に飛び込んできて、足を止めた。
「ルーちゃん、おはよう。今何か用事ある?」
いつからそこにいたのだろうか、ルカと同じく第二世代のボーカロイドである鏡音リンが、リビングを覗いていた。愛らしいくりくりとしたひよこ色の瞳が、明るく無邪気な笑顔を演出する。ルカにとっては先輩に当たるが、外見年齢はルカより幼い。
「先輩。何でも、いえ、何もしてません」
「じゃあ暇だったらわたしの手伝いして欲しいの、だめかな」
自らの言動により、いいえと答える事はできなかった。まったく、考えてから喋るものである。
「何をすればいいのですか?」
「探し物手伝って欲しいんだ」
リンは一層の笑顔を作り、強く口の両端を吊り上げた。すぼめた形は、何かを企んでいるようである。
「開発部にね、手紙を出したいの。それで、封筒と便箋を一緒に探して欲しいなって」
思わぬ事に、リンの目的はルカと同じだった。リンの顔まじまじと見つめて、どうしてですかと聞く。すると、リンはこう答えた。
「田中博士たち、すぐいなくなっちゃったでしょ。一応お世話になったから、ちゃんとそういうの、やっとこうって思ってさ。実は、わたしというより、ミク姉の提案なんだけど」
そうなのかと、表情筋を緊張させた顔で彼女は頷いた。こわばった顔をしている理由をリンは考えたが、結局わからない。仕方がないので首を捻って目で訴える。しかし、どうしたのと聞きたそうにしているリンを、ルカは気が付かないふりでやり過ごす。駆け引きにも至らない素直なやり取りだ。
「じゃあ、とりあえずリビング探すの手伝って欲しいな」
もう既に探しましたとは言えず、ルカは了承した。プライドの存在を、彼女ははっきりと自覚して短いため息をつく。だが仕方ない。こういう性格なのだ。初めて起動した時から、ずっと。
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