一月中旬頃。
起きてきたレンの前に並べられたのは一枚の食パンだった。
「ごめんね、これだけなの」
すまなさそうな顔で謝るのは所員の新井だ。
「昨日、買い物忘れてて。この辺りだとまだお店も開いてないし」
一枚あるだけでもいいかとレンは食べ始める。
「ミクとメイコはさっき食べてもう仕事に出たわ。リンとカイトはまだ起きてなくて、その分がないのよ。店が開いたら買いに行かないと」
「でも、たしかリンは今日仕事が」
「キャンセルになったみたいよ?」
レンとリンは年が明けた辺りから別々に仕事する事が多くなった。研究所としてはいいのだろうか、レンは心配である。リンはレンがいないと不安定になる事があるからだ。
(まあでも、最近はない……か)
そう思うと、リンに必要にされなくなっている気がした。いや、そんな事はないと首を振る。レンの仕草に新井は小動物のように首を傾げた。
朝食を食べ終わり、出してもらった紅茶を飲んで一息つくと、廊下の方から引きずるような重い足音が聞こえてきた。明朗ではない響きははっきりとした意識を持つ者では出せない気がして、誰か起きてきたんだろうとレンは思った。
部屋の扉が開く。そこにはレンの予想通り、今さっき起きてきたのがわかるほどぼうっとした動きでまぶたを擦るカイトがいた。
新井が挨拶をすると、聞こえないほど小さな声でカイトはおはようと返す。レンは呆れた顔でドアに一番近い席を引いて、カイトを促した。寝ているのか起きているのかわからないくらいグラグラ揺れた動きで椅子に座ると、彼はテーブルに突っ伏す。そのまままた寝始めてしまった。
レンは本当に呆れてため息をついた。ここまで尊敬できない年長者と言うのも珍しいのではないだろうか。二年ほどしか違わないが年長者には違いないカイトは、レンに言わせれば子供のようだ。
カイトの様子を困ったような笑いを浮かべながら見ていた新井がレンのため息に吹き出した後言った。
「まあ、昨日寝る時間が遅かったようだし、自分で起きてきただけマシね。ひとり、まだ起きてこないお姫様もいるし。レン、眠り姫さまの様子を見に行ってくれないかしら?」
「あ、うん、いいけど」
「あと出来れば博士の様子も見に行って欲しいわ。寝ているようならいいけど、まだ起きてたら寝てくださいって言っておいて」
「博士、徹夜したんですか?」
「そうみたい。今日来たときにはまだ寝てなくて」
睡眠を大切にするレンにはよくわからないが、やるべき事のためだけでなく、自分のやりたい事のために睡眠を惜しむ人間は多いらしい。そして、博士はその典型的な人物なのだ。
レンは、自分のでありリンのものでもある部屋に戻る途中、博士の部屋に寄ることにした。
ノックをして待つが返事はない。音が立たないように扉を少し動かし、僅かな隙間から中をうかがう。
部屋は少しの明かりがあった。レンから見て右側にあるデスクの上のライトがついており、部屋の奥にある窓にはカーテンがかかっているものの、太陽の光を全て遮ることは出来ていない。左の方を見ると、仮眠ベッドで寝ている博士がいた。どうやら完全に寝ているようだった。
そろりそろりと中に入り、扉を閉める。その音が思ったより大きくて、レンもびっくりしたが、博士を目覚めさせる要因にもなってしまったようだ。
「……レン~?」
レンの姿を視認した博士が呼びかけた。のそのそと起き上がる。
「あ、もう出……」
「いいよ、なにー?」
「様子見て来いって言われただけだから。まだ徹夜してたら寝させてって新井さんが……」
「彼女もねぇ、子ども扱いひどいよねぇ」
レンは曖昧な笑顔を返して、部屋を出ようとする。
ふと、デスクの上、ライトが照らす資料が気になった。
「ルカ……?」
紙が重なっていない部分にそう書いてあった。
博士は、口に人差し指を当ててレンに言った。
「ミクとメイコには秘密だよ。カイトは知ってるし、リンにも知られちゃったからいいけど。……レンにははじめてできるね」
「はじめて?」
「妹だよ」
優しい声でそう言った。レンははじめ驚き、数秒して意味が飲み込めた。
「新しいボーカロイド、出来てたんだ……」
「今月の終わりにこっちに来るって、よかったね。名前は、巡音ルカだ」
「めぐりね……ルカ……」
まだ信じきれていないレンは口の中でかみ締めるように新しい妹の名前を唱える。レンが少し嬉しそうな顔をしたのを博士は見逃さない。
少しだけ笑ったレンに博士は言った。
「そうだ、レン、リンの様子、見に行ってくれる?」
突然そんな事を言われたのでレンはびっくりして博士を見る。
「見に行きますけど……」
「それならいいよ。実はね、昨日リンもその書類見ちゃって、その、ちょっと気になってるんだ。レンが行くなら安心だ」
「何かあったんですか?」
「最近、リンと仕事が別々なのをどう思う?」
レンの質問には答えず、博士は質問で返す。
「えっと、一人でやっていけるようになった方がいいと思うから……心配だけど、でもなんか最近はリンも安定してるし、大丈夫だって、思う」
「リンはひとりでも安定したよね。前とは大違いだ」
レンもそう思う。リンは変わった。不安定な部分がなくなり、レンがいなくても大丈夫なようになってきた。それがレンには少しさびしいし心配なのだが、必要だとも思うのだ。
「……リンは昨日こう言った。もしも、自分より手のかからない、かわいい妹が出来て、もしもレンがその妹を可愛がって……もしも自分を捨てたらどうしよう……って」
博士には昨日のリンの様子が目に浮かぶ。恐慌状態から回復した後、不安そうにうつむいて呟いていた。あんなに小さな体を震わせていた。
恐れを語ったリンの言葉を代弁した博士に、レンは激昂した。
「そんな事あるわけがない!」
「その通りだ。でも、リンは不安なんだ。一緒にいる時間が短くなったから、レンの真の心が見えにくくなって不安なんだ。だからレンは自分を捨ててしまうかもしれないって思ってる。……さびしいんだよ」
「……バカだ、リンは」
レンは一言、そう言った。それを見て博士は微笑んだ。
「リンが本当に不安がってね、夜中ずぅっとカイトと僕でリンをなだめて何とか眠らせたんだけど。……カイトはリンと似たようなところがあるけどレンじゃないし、つまり僕らじゃ不安を取り除くには役者不足なわけだ」
博士はレンに言った。リンの不安を取り除けるのはレンしかいない、と。
憮然とした表情でレンは頷く。そんなことわかっている。
「まあ、それでレンは今日のお仕事ないし、リンもキャンセルにさせて貰ったから、心置きなくお話しておいで。どこか行くなら送っていくよ。仕事はまあ、ちょうど良かったし」
「キャンセルしたのにか?」
「うん、多少無理やりにでも理由をつけて断る事が出来てよかった」
博士はこれ以上その話について話す気はなく、口をつぐんでしまった。レンは何を話したらいいかわからないでいる。
部屋にいる二人が黙り込んで数十秒経ったところで、仕切り直すためか博士は背と腕を上に伸ばしながら言った。
「とにかく、リンと話してきなさい。……ふぁあぁ、眠い……」
眠そうだ。博士が仮眠中だったことを思い出したレンは、急いで部屋を退出すると、はやる心を抑えて二階へ上がった。
部屋に入ると、リンはまだ寝ていた。
寝顔をよく見れば何かを怖がっているような顔でいる。
そっと近づいてベッドに腰掛けると、レンはリンの前髪を撫でてみる。それでも起きなかったが、少しうっとうしがるように反応した。
「心配しなくても大丈夫なのに」
一心同体だとレンは思っている。
「大体、オレだって、リンがいなかったら……」
リンがいない、それを考えるだけで心が痛くなる。たぶん、それが現実になってしまったら狂ってしまうだろう。
ありえない未来を考えるだけ無駄だってリンに言ってやりたい。
レンはリンが起きるまで待つ事にして、ごろりと横になった。
「二人とも」
「来ないねぇ」
夕方になった。
研究所のリビングでは博士とカイトが、リンとレンが降りてくるのを待っている。
「ふたりとも、大丈夫だと思うんですよ、ちょっと不安になってるだけでしょうから」
カイトはコーヒーを飲みながら言った。
「そうだろうねぇ。まあ、今のタイミングで確認しあうのもいいんじゃないかな。きっと」
博士はそう言うと、テーブルの真ん中に置いてある木の器から煎餅を取ってかじる。しょうゆ味が美味しい。どこで買ったのかと聞こうと思ったとき、カイトが口を開いた。
「話をしようともしなかった兄弟よりはよっぽどマシですし、あのふたりならいい方向にしか行かないと思いますよ」
「……まあね」
カイトの言葉が経験からきているのだろうと博士は思った。ここにはいないもう一人の口ぶりを見るに、きちんと話をすればカイトたちもいい方向に行けると踏んでいるのだが、本人たちにその気は無さそうだ。
「それはともかく、このお煎餅、どこで買ったの?」
「自作です」
「なんでもできるようになるなぁ」
ボーカロイドなのになぁと、博士はなんとも言えない気分になるのだった。
「……まあしかし、正直言うと本当にいいタイミングだったよ。この先も、ああいう人の仕事は避けたいねぇ、ホント」
「ですね。ああいう輩はアンドロイドの大敵ですから。そのうち動きがあると思います」
「その辺はお手並み拝見という事かな」
よかったよかったと言いながら二人同時に茶をすすった。
部屋にあるテレビにはドキュメンタリー仕立てのバラエティ番組が映っている。どこかの会社が作ったアンドロイドの宣伝を兼ねている構成のVTRに苦笑しながら、ぼんやりとお茶をしていると、二つの足音が部屋に近づいてきた。足音は小さく軽い。十中八九リンとレンだろう。
扉が開く、と怒った顔のリンとレンが競うように部屋の中に入ってきた。
「リンのバカ、一回起きたんならその時起こせよ!」
「レンこそ最初に起こしなさいよ、こんな時間になったじゃん」
「うっさいな、ちょっと寝かせてやろうと思ったらこれだ」
「そっちこそ、疲れてるみたいだからって静かにしておいてあげたのにその言い草はないでしょ!」
降りてこないと思ったら、どうやら二人して寝てしまったようだ。
博士とカイトは苦笑しながら二人の口論を見守る。
こういう喧嘩をしている所を見るのは久しぶりだと博士は思った。口喧嘩ができるならまだまだ大丈夫だろう。喧嘩するほど仲がいいとも言うし、安心するべきだ。
この感じだとここに来るまでずっと言い合いをしていたのだろう。さすがに止めた方がいいかなと、博士は横槍を入れる事にした。
「おはよう、リン。もう夕方だよ」
「あ……。おはようございます。その、寝坊してごめんなさい。仕事……」
「昨日、キャンセルしようって言ったのは僕だから別にいいよ」
博士がリンに言うと、リンはもう一度謝った。その横からレンが聞く。
「本当に仕事キャンセルしてよかったのか?」
「いいのいいの。ね、カイト」
「はい」
ふたりで勝手に確認しあっている。レンは門の外に追いやられた格好で、なんだか嫌な気分になった。明確な理由が聞きたかった。リンも本当にそれでよかったのかと不安になっている。
「リンもレンも、大人になったらわかるかもよ」
わからないままの方がいい、とは博士は言わなかった。わかるようになるとも言わなかった。なって欲しくないという願いがこめられていたのだが、リンもレンもそれに気づいたりはしない。
よく理解していない表情でリンがそうなんだと言った後、恥ずかしそうにして腹の辺りを押さえた。
「……お腹、すいた」
「あ、オレも……」
昼食を抜かしたのだから当たり前だろう。それに、そろそろ夕食の時間なのだ。
お腹を空かせたふたりに博士は微笑むと、そろそろご飯にしようかと言って席を立った。カイトがそれに習い、仕度をするべくキッチンに向かう。
リンとレンがその場に残された。
そして、レンが、視線を天井に逸らして言った。
「リン、オレは絶対リンと一緒だから。絶対だ」
レンの言葉を聞いて、リンの頬は赤に染まる。照れた顔で、潤んだ瞳でレンに話す。
「……うん、わかってる。ちょっと不安になっただけ、もう大丈夫だよっ」
言い切ったリンは、心からの笑顔を見せた。太陽のようだった。
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