音楽スタジオのロビーにミクとメイコはいた。
新曲のレコーディングのためにいるのだが、作曲者と作詞者が大喧嘩してしまい、ふたりともとりあえず録音ブースから出てきていた。仕事熱心なのはいいことだが、これではいつ帰れるかわからない。研究所に電話を入れたほうがいいかなとメイコは考えていた。
「あはは、一単語の違いであんなに喧嘩するなんて」
「プロだからね、仕方ないわ」
長椅子に腰掛けるミクにメイコは水の入ったペットボトルを渡す。横にある自動販売機で買ったものだ。
ロビーにはテレビが置いてあった。映っているのはドラマのようで、男達が会話している。
ミクたちはそれを何気なしに見ていた。
ふたりの登場人物は兄弟で、会話の内容は妹についてのようだ。妹が実の兄弟ではないと知って、一方の男がそれまで呼び捨てだったのを敬称をつけて呼び出し、それで妹が酷く傷ついているともう一方の男は言う。さん付けをするのは他人行儀だと、画面の中で喋っている。
「さん付けだと他人行儀なのかな」
「まあ、一般的にはそうなんじゃないかしら。兄弟なんだから、兄弟らしく呼んで欲しいと思う人間は多いんじゃない?」
「メイコ姉さんも?」
「例えば、突然ミクが呼び捨てし出したら、何か落ち度があったのか考えちゃうわね。嫌われたかもしれないと思う。それと、最初に姉さんって呼んでくれなかったら……もっと違う関係になっていた気がする。きっと、もっと違う……意外と関係が呼び方に引きずられる事ってあるらしいのよ」
メイコもそうらしいという知識があるだけだ。
「ミクも、カイトに対してさんってつけるわよね。前から思ってたんだけど、どうして?」
メイコがそれを聞いたのは軽い気持ちだった。
ミクはその言葉を聞いた時、ギクリとした。そして、キョトンとした顔でメイコを見ている。
「え?なんでって、だって、なんか……」
「なんか?」
「違う気がするの。カイトさんって兄っぽくないの。だから、さんって……別に嫌いとかじゃないの、本当だよ」
「わかってるわ、嫌ってるように見えない。ちょっと気になっただけだから、気にしないで」
メイコはそう言って右手をパタパタと振り、テレビ画面に視線を移した。
気にしないでと言われたミクだが、そう言われてしまっては尚更気にしてしまう。
(リンちゃんは兄って呼んでる。レン君が呼び捨てなのは恥ずかしがってるだけだろうし、メイコ姉さんは弟と思っているからこそ呼び捨てなんだろう。……じゃあ、自分は……やっぱり、他人行儀、なのかな)
ミクは考え込んだ。自然と背中は曲がり、頭は重力に従う。
そんなミクを見て、メイコは密かに自らの軽率さに舌打ちした。しまったなと思い、視線を泳がせると、扉にはめ込まれたガラスの向こうに新曲の作曲者と作詞者が見える。
喧嘩はまだまだ終わらなさそうだった。
次の日、ミクとメイコが今日も遅くなりそうと電話で伝えると、博士は迎えに行くと言い出した。そして、どうせならと他のボーカロイドたちを連れてスタジオまで来てしまったので、ミクもメイコも博士の行動力に驚く事となった。
リンとレンは珍しい機材や知らない道具を見つけて興味津々だ。メイコが二人の後ろについていって、使い方の説明をしている。もちろん、物を壊さないようにと言うお目付け役も兼ねている。
博士はついて早々、スタッフに名刺を渡して収録の状況などを聞いていた。昨日はあんなに喧嘩していた作曲担当と作詞担当が、今日はどちらも機嫌良く博士と話している。彼らはサービストークなのか、博士にミクの声はいいとかメイコの高音は素敵だとか言っている。途中から先程録音したミクの声をバックミュージックに乗せて流しだした。まだ調整も満足にされていないもので、ミクとしては恥ずかしい限りだが、彼らは褒めちぎっている。それがたとえ営業のためだとしてもこそばゆくて、ミクは廊下に出ることにした。
廊下に出ると、ちょうど右に五歩行ったあたりにカイトがいた。持っている五線譜を真剣に見ている。
ミクは気づかれないように忍び足で近づき、カイトの手元のものを覗き込む。
見覚えがある、ありすぎる。これはミクとメイコが今日収録している曲だ。なんで持っているんだろうかとミクが身を乗り出したとき、はじめて緑の髪が視界に入ったらしく、カイトは声を上げた。
「うわっ……。びっくりした。ミク、中で何かあった?」
「んっと、別にないけど。ちょっと博士たちの話が長引きそうだったから抜けてきたの。カイトさんこそ、中入らないの?」
「関係者以外立ち入り禁止だろうから、いいんだ」
「カイトさんは関係者でしょう」
言われて彼は曖昧に笑った。ミクにはどういう意味合いを持つのかいまいちよくわからない。
「なんで曲の楽譜持ってるの?」
ミクが聞くと、カイトはちょっと考えるように目を伏せてから言った。
「なんとなく、かな」
「……そうなんだ」
あからさまにはぐらかされたのだが、そうとしかミクは答えられなかった。カイトもそれに何か補足するわけでもなく、妙な間が出来た。
カイトはまた楽譜を読みだした。ミクは少しその様子を見ていたが、やがて壁に寄りかかると足元に視線を落とす。
どちらも何も言わず時間が過ぎていく。
話題はない。だが何か話しかけなければならない気がする。そうでもしなければ間が持たない。居心地が悪くて仕方がない。
この嫌な感じの沈黙を何とかしたいとミクは思った。
(あ……居心地、悪いんだ……)
一緒にいたくないわけではないが、何故か座りが悪い。
(……やっぱり、私はカイトさんに他人行儀なのかな)
そうではないと思いたかったが、さっき感じたことは嘘ではない、ということは……。
ミクはため息をついた。この時、吐き出した息と同時に気も出てしまったのだろう。気が緩み、うっかり声に出してはいけないことを言ってしまった。
「なんでカイトさんと一緒にいると嫌な感じするんだろう」
あれ……?今、なんて言った。
思っただけのつもりだった。それが何故か言葉に出てしまい、ミク自身が一番驚いた。
取り繕おうとして、ミクはカイトの方を見る。カイトは聞いていて、驚愕した表情でミクの方を見ていた。そして小さく息を吐くと、落ち着いた顔で言う。
「僕は帰ろうか」
疑問形ではなく確認の形を取った言葉だった。
「え、あ、違くて、別に、そうじゃないの、違うの」
「いたらまずいみたいだから」
「違う、いていいの、今のは私が悪くて」
「いいよ無理しなくて。ミクが無理する事ないよ」
「だから違うのっ」
そう叫んで、ミクは博士を呼びに行こうとするカイトの腕を必死に引っ張っている。
「そういうことは博士に言っておいたほうがいいよ。きっと、ちゃんと対応して」
「違う!聞いて!」
あまりの剣幕にカイトは驚いた。ミクがこんなに声を荒げることは少ない。思わず口を閉じて、相手の出方を待った。
ミクは何故か歯の根が合わず、ガクガクと音を立てている顎が収まらない。とにかく落ち着こうと息を整えようとする。
1分ほどすると、なんとか平静さが戻ってきた。それと共にやっと頭も回転しだした。
「……あのね、呼び方が他人行儀だって言われたの」
脈絡のない、突然出てきた単語にカイトは少し混乱した。しかし今は水を差すべきではない。
「正確には、ドラマでね、兄弟ならさん付けするなって台詞があって、私、さん付けてるから、一緒に見てたメイコ姉さんに……」
ぽつりぽつりと、言葉を切りながら話す。
「それで……私ね、カイトさんがどうしても、その、兄弟だって思えなくて……」
「嫌い?」
「じゃないよ!そうじゃないの!……そうじゃないんだけど、兄だって思えないの。ダメだって、思うんだけど、どうしても……なんでだろう」
ミクの感じ方は正しいとカイトは思った。ボーカロイドらの中でカイトとミクは一番遠い存在だからだ。
メイコは同世代機で同じ部分もあるし、リンは精神回路の設計がカイトに近い。レンは近い部分はないが、リンを補うために作られているので、リンに似ているカイトを放って置けない。そういうものが一切ないのがミクだった。
ミクにとってメイコとレンは精神回路の系列が同じボーカロイドであり、精神の動きも似ている。リンとは同世代機で、多くの部分が共通した部品を使っている。カイトは近しい部分はなかった。
そもそも、設計者も違うし、性別も違う、そしてはじめからコンセプトも違う。
環境も違った。完成直後から表舞台に出て活動していたミクに対して、カイトは言ってしまえば日陰者だった。いまやボーカロイドの代名詞ともなったミクと、ボーカロイドとして欠陥を抱えてやがて歌う事をやめたカイト。ふたりの違いはあまりに大きかった。
だから当たり前と言えば当たり前、当然の事だ。ミクのせいでもないし、ミクが気にするようなことでも、心配するようなことでも、責任を感じるようなことでもない。
さて、それをどう伝えようか。理由を素直に伝えても慰めにはならないだろうし、慰めが欲しいわけでもなさそうだ。
カイトがそう考えている間にも、ミクは沈みこんでしまっていた。
彼女は、未だに兄弟だと思えない自分はとても嫌なやつだと思った。一緒に住んでいるのに、同じ会社のボーカロイドなのに、どうしてもそうは思えない。そんな自分はなんて狭量だろうか。
「……ごめんなさい」
ミクが出した答えは謝る事だった。
カイトは一度天を仰いで、そしてミクの顔を見る。ちょうど目があった。
「似てる部分がないから、ミクの感覚は正しい。僕らは、人間で言えばとてつもなく遠い親戚のようなものだ。あるいは、同じ職種の、同じ職場の、まあ、別々の仕事を担当している人かな。どちらも真っ赤ではないけど他人だと思う」
そう言って微笑んだ。
「同じ研究所にいるから兄弟のように感じるべきだ、なんて事はないと思う。一緒に住んでても、友達だったり単なる同室の相手だったりする事もあると思う。ええと、つまり、ミクが謝る必要は少しもないんだ」
「嫌いじゃないんだよ、私」
「でもそうと思えないならそれでいいよ。兄弟だからって絶対にさん付けは駄目って事もないだろうし、無理に型にはめる必要はないと思う。型に比べてまったく別の形のものだったとか、大きすぎたり小さすぎたりもするだろう」
一度カイトは一呼吸置くと、再び喋りだす。
「それと、たぶん、ミクが見たドラマは昨日のだと思うけど」
「う、うん、そう。何でわかったの?」
「新井さんがよく話題にするから僕も見てるんだけど、あれ、原作があってね。実はあの後、さん付けされて妹が傷ついているという話が勘違いだってわかるんだ」
ミクは原作があることさえ知らなかった。
「勘違い?」
「妹は血の繋がっていない兄に愛の告白をしようかどうか迷ってるのが、落ち込んでいるように見えただけで、さん付けどうたらは、もう一人の兄に聞かれた時にとっさに考えた言い訳、という落ちなんだ。更に、兄が敬称を付け出した理由が、妹の好意に気が付いていたなんて話で」
拍子抜けするだろうと、カイトは声を立てて笑いながら言った。
(……そ、そんな話?そんな話だったの、あれ)
話の筋を知って、ミクは馬鹿馬鹿しくなった。同時に安堵した。なんだ、そんなものを見て悩んでいたのか、そう思った。
「なんだ、そんな話だったんだ。流行ってるの?」
「さあ。人気俳優と女優が出てるとかなんとか」
なるほどと首肯した。そういえば、最近人気があると聞いた俳優が出ていた。
同じエンターテイメント業界とは言え、歌と関わりが少ないことはあまり知らないし馴染みがない。特に喋りが主の演劇に関してボーカロイドの出番は今の所ない。どうしても不自然になるらしいのだ。
とにかく、カイトから聞いた話は思いのほかミクの悩みに効果があった。
「そうなんだぁ。あははは、何か、ほっとしたな」
悩みの元が拍子抜けだったため、悩みの全てが吹っ飛んでしまった。もちろん、型にはめなくていいというカイトの言葉も影響があるのだが、馬鹿馬鹿しさが更に上をいった。
あははとミクが笑っているのを見て、カイトも笑った。
そして、カイト持っていた楽譜をもう一度だけ見ると、足でリズムを取りだす。ミクがそれに気が付いて顔を向けた時、カイトは彼女の歌を歌いだした。
恋の歌だ。本当に好きで、命も惜しくない、一緒にいたい。十台の、若い女の子の気持ちを歌ったものだ。きっと若い世代に人気が出るとミクは思っていた。
1オクターブ下でも男性には歌いにくい音域のはずだが、カイトにはちょうどいいようだった。ボーカロイドが元々高音のほうが得意と言うのもあるが、やはりカイト自身が高めの声なのだ。
伴奏もない状態で、旋律だけだったため、ミクははじめの一小節、自分の曲だとはわからなかった。二小節目で気が付いて、驚いて小さく声を出した。
「それ……」
声に反応したカイトはミクの方を見て、語り掛けるように歌う。
気が付いた、一緒に歌おうと言う意味だと。ミクはすぐさまカイトと共に歌いだす。
オクターブ違うふたりの声が、廊下に響き渡る。
そして、さほど長くはない曲をミクとカイトは歌いきった。終わったあとすぐに、カイトは目でミクに評価をたずねる。ミクは、花が咲いたような笑顔でそれに答える。
「よかったよね、とっても!でも、突然どうしたの?」
聞くと、カイトは照れた笑いを浮かべて言った。
「約束したから。ほら、コート買ってくれたときに」
前にカイトのコートを買った時、返しに一緒に歌を歌って欲しいと言っていたのだ。そんな話、ミクはすっかり忘れていた。
覚えていてくれたことに嬉しくなりながら、ありがとうと頬を染めて言う。カイトはなお照れてはにかんだ。
「あのコート、今もある?」
「もちろん。ミクから貰ったものだから、捨てたりしないよ」
「そっか。でも、直ったからもう冷却材入りにしなくていいし、必要ないよね」
「……実は、ちょっと新しく取り付けた部品がバランス悪かったのか、熱が出すぎでやっぱり冷却遅れ気味なんだ。だから多分夏場は必要になると思う。はは、どうしてこうなんだろうね」
「ええー、直ったんじゃないの?」
「直ったことは直ったんだけど。また新しい問題が発生したというのが正しいかな」
「なんか、詐欺みたいだよそれ」
ミクは頬を膨らませながら言う。
「前よりはマシだから。大丈夫だよ」
カイトは励ますようにミクの頭を撫でた。周りに人がいれば、まるで兄と妹のようだと言うような光景だった。
パチパチと言う手を叩く音がして、二人はその音の方を見る。いつの間にか扉が半開きになっていて、そこに今歌った曲の作曲者が立っていた。
「あ」
見られたのが恥ずかしかったのか、ミクは拍手の音の方に向き直り、カイトは手を引っ込める。若い者らしい行動に、作曲者はひとしきり大きく笑い、そして部屋の中の方を見ると、更に大きな声で言う。
「山田さん、廊下の彼もボーカロイドなんですよねー?」
部屋の中から遠い声で博士が答える。
「ええ、そーですよ」
「外で歌わす予定とかない?」
「今の所ないですねぇ」
「もったいない、彼、いい声なのに」
「ええ、ええ、いい声でしょう、いい声でしょう」
博士の声は段々近づいてきて、とうとう廊下に博士が来た。他の二人も廊下に出る。
いい声だと褒められたカイトは視線を横にそらした。照れ隠しだ。
「気に入っちゃいました。今度使わせて貰えませんかね。コーラスだけでも」
「ああ、ありがとうございます。色々あるんで、本社に確認取らないとー」
「是非是非、お願いします」
ミクはどうやらカイトを気に入ったらしい作曲者の言葉に、本当に嬉々とした笑顔を見せている。
カイトの声を外部に人間が褒めた事がよほど嬉しいのか、博士は満面の笑みで、確認してみますねと言った。その博士にカイトが顔を赤くなった顔をしかめて話しかけた。
「博士、僕は、ちょっと歌うのは……それに、本社は許さないと思います」
「そうでもないかもよ~?あんまり目立たなきゃいいってなるかも知れないし、それに駄目だったのは歌えなかったからてのが主な理由でしょー?」
「そっ……それは、そうなんですけど……」
カイトは及び腰だ。しかし博士はそんな事関係無さそうに作曲者と話をし始めてしまう。
部屋の中で会話を聞いていたらしいレンとメイコが出てきて、それぞれなりに祝うと、リンがカイトに突進してきた。
「カイトにぃ、やったね!」
「リンちゃん、まだ決まってないから」
ミクがリンを諌めるが、ミク自身リンのように祝福したいほど喜んでいた。
ただ一人残されたように、カイトは内心途方に暮れている。
(何でこんな事になってるんだろう)
そう思い、小さなため息をついた。
次:巡音ルカ