時期は一月中旬から下旬。
久しぶりに(といっても一ヶ月ぶりだけど)開発部に戻ることになって、オレとリンは荷物をまとめている。
開発部でメンテやデータを取るのに時間がかかるらしく一週間の旅の予定だ。
研究所に来てやっと慣れてきたところだったのにとも思うんだけど、この時期に取るべきデータがあるんだそうで、メイコ姉に不満げな顔しないのと叱られた。帰ってきたらババナマフィン用意しておくからとも言われた。激励なのか餌付けなのかイマイチ微妙なところだ。
ミク姉は今日は仕事でいない。今この研究所で一番忙しいのはミク姉だから仕方がない事だった。
「リン、仕度できた?」
「できたよ、私レンほどのろくないし」
全然かわいげがない。リンはミク姉を見習うべきだと思う。
カバン一つをに服とゲーム機を詰め込んで、リンと所員の一人と一緒にタクシーに乗った。結構遠いから、暇つぶしのゲームに飽きないか、それだけが心配だ。
開発部の建物に着くともう夕方だった。まずメンテナンスのために検査フルコースで、結局検査だけで今日は終わりになってしまった。
今日のうちに基本的なデータは取る予定だったのにとこっちの研究員がぼやいていたから、もしかして一週間以上滞在することになるのかなと憂鬱になる。
「つかれたー」
「ああ、ちょっと疲れたな」
リンと一緒に寝床として充てられた部屋まで廊下を歩く。ボーカロイドだって睡眠は必要だし、できれば堅くないベッドのほうがいい。それから甘いものがあるとなおいい。例えばミカンとかバナナとか。
途中で男女二人の研究員が口げんかしているところに出くわした。
なんだろう。テスト体がどうのとか行方不明がどうのとか言っている。あまり口を突っ込むこともないと思って通り過ぎようとした、けど。
「結局残りの一体はスクラップにされることが決まっているだろう!今更、失敗作のボーカロイドに情けでもかけるつもりか?まさか人道派のフリでもする気か、お前が!」
横にいるリンが、スクラップの言葉を聞いてたまらず耳をふさぐ。ボーカロイドの前であまり話して欲しくない話だ。尚更足を速める。
「失敗作ですって?壊れたのはエーだけ、ビーは壊れてなかったのに、あなたたちがボーカロイドとして使えなくさせたんでしょう!私は元々セーフティをかけることは反対だった!失敗作だなんて…たった一例だけで全て決めるなんて!」
「一年以上前の話を蒸し返すな!セーフティは必要だったしアレのおかげで鏡音シリーズが作れたんだ。アレは役にたったさ、それだけで十分だろう」
「何よ、結局あなたはあいつの成果が妬ましいだけでしょう!」
なんだと、と男が女の首元を掴む。さすがにこれはまずい状況な気がする。
「あ、あの」
思い切って声をかけると、男はあわてて手を離し、なんだ、と不機嫌そうな声で答えた。
「トイレ、どこですか」
「トイレならそこの角を曲がったところだ」
男はそういうと足早にオレたちが来た方へ歩いていった。
「ありがとう」
首元を掴まれていた女性がそう言って、ポケットから飴を取り出した。
「これ少ないけどお礼、お嬢ちゃんにはこっち」
そういってハンカチとチョコを差し出す。リンがいつの間にか泣いていた。
リンは小さな声でありがとうと言うと、そのままハンカチで顔を覆いうずくまる。女性はごめんねとつぶやいた。
その女性はお礼をするからと言って、近くの部屋にオレたちを案内した。どうやらこの女性研究員専用の研究室らしい。
「そこらへん適当に座って。ああ、ココアでいいかしら、インスタントだけど」
すいませんと言ってソファに座る。さっきまで泣いていたリンはまだ落ち着かないらしく、座ってもハンカチを手放さないままだった。
二人分のインスタントココアを煎れると女性はオレとリンの前の机に置いた。
「私は田中。ボーカロイドの開発研究をやってます。鏡音シリーズのリンちゃんとレンくんね。チームは違うけど何度か開発の補助に入ったことがあるんだけど……おぼえてないわよね」
「えっと」
「あはは、意識が覚醒する前のことだからわからなくて当たり前よ。胎児の頃の事をおぼえてる人間もいるらしいし、アンドロイドもそうだったら面白いなって。ちょっとしたロマンね」
この田中という女性は案外変な人かもしれない。アンドロイドは決められたプログラムの外側のことは行わない。非覚醒状態の時のことをおぼえているというプログラムがない限り、おぼえているわけがないのだ。そういえば博士が前に研究者はロマンチストが多いと言っていた。
「なんかね、アンドロイドが枠組みを越えて何かしてくれるんじゃないかって信じたいみたいなのよ、私。こういうところがダメなのねー、だからさっきも他の人とケンカしちゃうし」
そういって彼女は自分用に用意したコーヒーを飲む。
「そこの楽譜、見ていいですか?」
いつの間にか泣き止んだリンが、まだ鼻の頭を赤くしながら言った。女性が二つ返事で了承すると、リンは近くの机の上にあった五線譜を手に取る。
「バラードですか。いい曲ですね」
「ええ、ありがとう」
彼女はそう返事をすると、楽譜の近くにあったテープレコーダーをオンにする。
今時珍しいアナクロな機械から、寂しげなバラードが流れてきた。リンが見た楽譜はこの曲らしい。高めで落ち着いた男声が部屋に広がった。
素直に、きれいな声だと思った。オレの声は鼻声で、ソプラノの音はきれいに出るけど少し下の音になるとすぐ濁る。オレはそれがすごく嫌だ。ボーイソプラノ。それがオレの売りだけど、オレだってもっと男らしい声も出したいと思う。
例えば、このバラードのような声を。
歌は短かった。テープがカラカラと録音されてない部分を鳴らす。女性はテープを止めると、その楽譜はあげるわと言った。
「もういらないから」
「いらないって」
「今のを歌った子の声はもう聞けないの。私は歌下手だし、歌える子達の手に渡ったほうが有意義だと思うの」
「聞けない?」
「さっきのはね、ケンカしてたとき言ってた……歌えなくなったボーカロイドの声よ。歌えないなんて、もうボーカロイドじゃないかもしれないけど」
そう言ってテープを取り出すと、リンに渡す。
「あの、これ、必要じゃないんですか」
リンの言葉に彼女はかぶりを振った。
「持っておきたいけど、未練がましい女は嫌われるからね。もう次の開発にも本腰をいれないといけないし、そろそろ忘れるときが来たと思ってる」
「そのボーカロイド、廃棄するんですか」
「たぶんそうなるわね。もう決まったことだから、仕方ないわ」
仕方ないという言葉をオレは小さく繰り返す。そんな言い方……人間にとって死ぬことと同じなのに。
女性はコンピュータに入っていたデータディスクを出してオレの前に差し出し、にこりと笑った。優しく、寂しそうな顔だった。
「ごめんなさいね、お礼のために呼んだのに。お礼はその楽譜とテープ、あとこのデータよ。それなりにボーカロイドの役にたつと思うのだけど」
受け取ってといわれて受け取らないわけにもいかず、データディスクを取る。何のデータだろう。
「遅くまでごめんなさい、そろそろ寝ないとまずいでしょう。二人の部屋は部屋を出て右をまっすぐ行けばすぐだから。ああ、あとそのハンカチもあげるわ」
ありがとうございますと言ってリンとオレは部屋を出る。二人とも無言で廊下を歩いた。
部屋は畳だった。備え付けてあった布団は二組だったが、リンと一緒に一組だけ出して敷く。二人で一つに入ったほうがあったかい。
リンはさっきの人から貰ったデータのことを気にしているようで、ちらちらと楽譜とテープとデータディスクを入れたカバンを見ていた。
「さっきの人のデータ、明日コンピュータ借りて見ようぜ」
うん、と返事したリンの声に力はない。
「レンはさっきの歌どう思った」
「きれいな歌だと思ったよ。……きれいで、かなしい歌だと思った」
「そっか」
それきりリンは黙ってしまった。何か思うところがあるんだろう。
オレも深く聞かないことにする。リンは一見明るいけど結構ナイーブなヤツだ。明日からのデータ取りに支障があっても困る。
布団を敷き終わって二人で入る。確かにデータディスクの中身は気になるけど布団に入ったら急にどうでも良くなった。オレは設計段階から睡眠欲が旺盛らしい。うつらうつらしてきたオレにリンが話しかける。
「ねえ」
「なんだよ」
「もし私が廃棄されても、レンは私の歌をおぼえていてね」
「当たり前だろ。ていうか、リンが壊れる時はオレも一緒だよ。一心同体だろ」
「うん、ありがと」
そう言うとリンはすうすうと寝息を立て始めた。珍しく寝つきがいい。
オレも程なく夢の世界に誘われた。
結局一週間だった予定は三日延びた。
開発部を発つ日、研究員の一人がごめんねーといって飴とチョコをくれた。子供にはお菓子をあげればいいと思ってるんだろうか。
あの女性、田中と名乗った彼女にはあれ以来会わなかった。新しい開発企画チームに入ってすれ違いになったらしい。
データディスクの中身は歌なしの音楽データで、聞いたことのない曲だったけどロックやテクノ、アンビエントやジャズなど色々種類があって面白かった。
研究所に戻ったらミク姉やメイコ姉にも聞かせたいなと思ったけど、リンが気に入ったのか、貰ったあのテープと楽譜を自分のだと言って、そのまま自分のバッグに入れてしまった。楽譜はオレだって見てないのに、リンは勝手だ。
あのテープの歌声の主について、他の研究員に聞いても、はぐらかされて教えてもらえなかった。もうすぐ廃棄処分になるボーカロイドの話を聞かせたくなかったのか、それとも研究員にとってどうでもいい存在だったのか。なんとなく両方なのかなと思う。
タクシーがやってきた。また電車や飛行機に揺られることになるのかと思うと憂鬱になる。持ってきたゲームも飽きてきたしどうしようか。データディスクの音楽を聴くにはハードがないし、またずっと寝ることになるかもしれない。
「レン、早く行こ!」
リンに急かされて、オレはカバンを持ち上げた。
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