リンは彼女、レーコと仲がいいわけではない。顔見知りというレベルですらなく、仕事が一緒だった事が何度かある程度である。だから話しかけるのに躊躇し、時間もかかった。レンがさっさと来ればいいのにと何度か胸のうちでいらついたが、待っていてもらおうと言ったのは自分であったので、最終的に勇気を振り絞って話しかけた。
レーコはレンと返すという言葉を聞いてすぐに察した。しかし彼女も忙しいので、あと十分ほどしか待てないと言うのだ。
猶予は少しだけ、レンはまだ来ない。時間は無常にも過ぎていく。
あと二分、リンのいらいらは最高潮に達している。マネージャーを待たせているらしいレーコも、あまりいい顔はしていない。まだかとリンに問いかけ、リンはあと少し待ってほしいと困り顔で返すと、その時になってやっとレンの姿が見えたのだ。
「レン、遅いっ」
「ご、ごめん」
「謝る相手が違うでしょ」
リンが指摘すると、レンはレーコの目を見て、頭を下げた。それから横脇に抱えていた小さな紙袋を差し出して渡す。レーコは受け取って中を確認すると、妙に不機嫌そうにしながらレンに言った。
「そんな急いで返さなくてもよかったのに。それよりあの事調べたんでしょ、どうだった」
レーコの言い方はわかって当たり前だという風であったが、レンは首をひねった。頭上には疑問を示すマークが乱舞している。
「……?調べたんじゃないの?……うわマズ、時間だ」
腕時計を見ながらマネージャーに怒られるとぼやくレーコは、挨拶もそこそこに、急いで行ってしまった。
「何の話?」
不審そうな目をしてリンが聞く。対して、レンは本当にわからないらしく、空中を睨んでいた。
「うーん、重要な話だった気がする、んだけど、思い出せない。何か……そう、何か調べようと、でも何をなんで調べようと思ったんだか……リン知らない?」
「知るわけないでしょー。あの日、レンが変にあの音楽プレイヤーを気にしてたけど、何調べようとしたかなんて知らないよ。レーコちゃんに教えてもらったら。もう行っちゃったけど」
「いまさら追うのもな。また今度にしようかな」
「めーわく」
「だよなあ。……本当になんだっけ」
ぽっかりと、どころではなく、すっかり白紙になっている記憶が、レンを悩ませるのだった。
記憶の欠落に襲われていたのはメイコとミクも同じだ。
メイコは、どうしてカイトの部屋にいたのかすっかり思い出せなくなった不安から、山田博士の代理として現在研究所にいる二人の博士の片方、田中博士に相談する事にした。
田中からの返答は大丈夫の一言で、メイコは納得する事ができず、数日振りに出勤をした新井に愚痴を言った。新井は切なそうな顔をして何も答えず、聞きに徹している。
ミクが思い出せない事はあの時何が起こったかだけなので、さほど不安にも思わず、不信感もない。
しかしそのミクは、新しく来た二人の博士のもう片方である鈴木博士に悩まされる事となった。つまり相性が悪いのである。さすがルカの担当だとうなずきながら、何とか距離を置きつつ毎日を過ごしている。
さて、ルカは鈴木博士が来てよかったかと言えばそうではない。彼女がこちらのやり方に慣れたせいで、鈴木博士との間に溝ができてしまっていた。
夕方から行った自主練習を鈴木博士が監視していたものだから、ルカも練習に全く身が入らない。練習室から退出してもらえばよかったのかもしれないが、たとえ短い期間でも、教師であり育ての親のように接した相手なのである。ルカが文句を言えるわけがない。
ルカは今も黙ったまま、鈴木博士の後ろを歩いている。無表情にしては何かへの焦りが見え隠れしている。
それを気がついていないのだろう、鈴木という男はルカに歩調も合わせずどんどんと進んでいく。
目的地はリビング。夕食のためだ。ここ数日は出前で済ませていたが、今日は調理をこなせる人物がいるため、食事の準備はすべて彼女に任せてあった。
気まずい空気だ。空気に気がついていないのだろうかとルカは横から覗き込むように身体を傾ける。横顔は鉄仮面をかぶったかのように固く、口は真一文に閉じられていた。
「……鈴木博士……」
「なんだ」
親しみのない返事だ。ルカは、これを当たり前だとして過ごしていた昔の自分を自分ではないように思った。今は彼の対応を当たり前に過ごせない。変わったんだろう、たぶん、自分が。
「……メイコ先輩が、記憶が欠落していると仰られています。大丈夫なのでしょうか」
ルカは緊張している。張り詰めた糸が機械の心臓を速く動かそうとしている。
鈴木は立ち止まった。
「……お前が気にする事ではない」
先ほどより速い速度で歩き始めたので、ルカは小走りに後を付いて行かざるを得なくなってしまった。
カツカツというヒールの音と、コツコツという革靴の音が、リビングの扉の前で止まる。
扉の向こう側から話し声が聞こえてきた。
メイコの声だ。
記憶が曖昧に飛んでいる事が嫌だと、何があったのか知りたいと彼女は言っていた。
ドアを開けると、喋り続けていたメイコがピタリと口を閉じて鈴木とルカを見た。新井が引きつった愛想笑いを浮かべながら挨拶する。その二人を一瞥した鈴木が、開口一番言い放った。
「貴様らは首を突っ込むな」
むっとしたメイコは明らかに鈴木に敵意を持ったようだった。
「どうしてですか」
棘がある。本質的に人間に対して攻撃的になれないのがメイコたちアンドロイドだが、不満を感じて反論を試みたり、反抗のかたちを取る事はできるのだ。もちろん、危害を加える事はできない。そうなっている。
メイコの態度に鈴木は眉間に皺を寄せた。そして、大上段から振り下ろすように、強く言った。
「わかっていないようだが、貴様たちのやった事は、現在進行形でこの研究所の人間を窮地に追い込んでいる」
「なんですって」
「ここの所長と、山田とか言ったか、これ以上何かあれば戻って来ないかもしれんぞ。あの青いのも前より廃棄の可能性が高まったかもしれん」
鈴木は眉間の皺をそのままに、勝手にそのあたりにあるイスに座った。
メイコはこわばった表情を、ルカは緊張と困惑を混ぜたままで、新井を見た。すると新井は、深刻そうにうなずいた。レンとリンと迎えに行っていた田中の声がしたのは、その直後だ。
その雰囲気のまま夕食が始まった。
暗く、緊張した雰囲気である。メイコは深く落ち込み、ミクとリンは空気の重さに困惑し、ルカとレンは考え込んでいて箸がなかなか進まない。メイコを落ち込ませた鈴木は、いつもと同じく不機嫌そうにしている。
この三日後の長期休みを考えて気が重くなっていたのは、新井と田中の二人であった。味が悪く感じたのは、新井のせいではあるまい。
その夜、レンは食事と風呂を終えて自室に戻った。
そしてリラックスのためにぼんやりと何気なく浮かんだ音をなぞっていると、同室であるリンに話しかけられた。
「なあにその曲。レンの新曲?」
「いや違うけど。なんか記憶にあって、つい鼻歌で出ちゃうんだよな。聞いた事ある気がしないんだけどさ」
ふうん?とリンは首を傾げている。
「鼻歌じゃなかったよ。今、歌詞付きで歌ってた」
「うそ。マジで」
「うそつく意味ないし。完全に、意味のある歌詞だった」
そう言って、リンは聞き覚えのない、けれど記憶にあるその歌をつづり始めた。
内容はずいぶんと寂しいもので、別れを受け入れようとたたずんでいる、そんな歌詞だ。
「……こんなだよね。細部あやふやだけど、覚えちゃった」
「へぇ、一回でよく覚えたな。覚えようとして聞いてないと一回はキツイだろ」
「一回じゃないよ。さっきからずうっと何回も歌ってたのに、まさか全然気が付いてなかったの?」
「うそだ」
「だから、うそつく意味ないじゃん」
その通りだ、理由がない。なら、リンの言うとおりなんだろう。
「……レン、本当に大丈夫?記憶の事といいさ」
「大丈夫だよ」
とは言え、まさか無意識に歌を歌っているとは思わなかった。
「なんだろ、この曲」
首を捻るが、全く覚えがない。
ただ、この小さな音楽を覚えていたいと、理由もなく思った。
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