研究所の中で一番の早起きはメイコである。
今日も早くに起きた彼女は、人の気配がない廊下を通ってリビングの前まで来た。
扉を開けると、徹夜か早起きかわからないが、博士がソファに腰掛けていた。
「うーん……」
頭を抱え、見るからに悩んでいますとばかりに唸る博士に声を掛ける。
「おはようございます。どうしたんです?」
博士はメイコをちらりと見てため息をつく。
「おお、おはよう。どうしたもこうしたも、昨日の事がねぇ」
昨日の昼、この研究所の前でいざこざがあったと言う話は、メイコも聞いていた。
新井にこっそり教えてもらった情報によると、ミクたちのファンが十人ほどで門の前をうろついていて、通りすがった近所の住人たちと口論になった。止めようとして警備の人間が仲裁に入ったのだが、益々事態が悪化してしまい、暴力沙汰に発展した。最後に警察と救急が出動して収束した、と言うのが事の顛末である。
運良くカイト以外のボーカロイドは仕事で出ていたため大事には至らなかったが、随分物騒な話である。
「ご近所さんにも迷惑掛けちゃったしい」
「菓子折りでも持って行きます?」
「それはもうやったから大丈夫だよ。それより、パパラ……ええと、フリージャーナリストとか、お客さんが増えてたから危惧してたんだけど、ホントに起きちゃってどうしようかとね。今回の事のせいで、警備厳しくして、それから皆にも護衛を数人つけようかなって方針になりそうでさ。他にもやる事あるのに、もー頭パンクしそーだよ」
物言いからして本社の意向だろうが、博士としては面倒な事になったらしい。
確かに、これ以上悩みの種が増えるのは歓迎できない。まだまだ解決していない大きな問題や小さな問題がある。例えばルカとミクはまだギクシャクしているし、レンはまたカイトに突っかかるようになった。
突然ぶたれた方であるルカは、それにもめげず仕事をこなしていて、それは評価できる。不気味なくらいに彼女は淡々としており、何かゆがみがなければいいけれどと思う。
ぶった分だけ威勢がいいかと思えば、冷戦相手であるミクは元気がなく、迷っているようだった。ルカの初出演番組を見ていた時泣いていた事と関係あると仮定すると、ルカへの態度を迷っているのかもしれない。そういう殊勝な考えならいいとメイコは思うが、行動を見るとどうも違う気がするのだ。
今のところルカと気楽に会話しているリンは、それぞれの間を持とうとして行動が空回っているし、無理をしているようで心配だ。ナイーブな子なのだからフォローしなくてはと思いつつ手が回らない。レンがいるので大丈夫だとは思うが、そのレンもイライラとして落ち着かない。
レンを苛立たせている主原因らしいカイトと言えば、博士と共に外出する事が異様に多くなった。夜、仕事から帰ってくると二人ともいないのは珍しくなく、メンテナンスでもないはずなのに一日中研究所を空けている時もある。また何を隠しているんだと、メイコももどかしさを感じていた。
ここ一ヶ月半ほどの研究所は大分厄介な状況が続いていた。これにまた面倒が増えると考えると、気が滅入ってくるのだった。
「メイコたちには申し訳ないけど、警備増やさないとボーカロイドは仕事以外で外出禁止になるかもしれない。桜の花見は向こうの河川敷でやろうかと思ってたんだけど、これだと所内でやることになりそうだ」
博士はため息をつきながら言った。
見ていたメイコはフォローするように博士の肩を叩いた。
「まあ、前回が散った後にやったから、今回、咲いている時にやるのであれば大丈夫ですよ。あのこたちも喜びます」
「そうかい?それならいいけど……しかしねぇ」
ぶつぶつと何かつぶやいて首を捻ったかと思うと、頭皮を掻きながらううんと唸り、そしてまたため息をついた。
いつも飄々としている博士なのに、今はひどく弱気だ。
ボーカロイドの事なら何でもわかっている人だとメイコは思っていたし、事実博士はそのように振舞っていたが、しかし、考えてみれば人の子なのである、自信がない時もあるのだろう。
「ほら博士、開花予想はまだ少し先ですし、それまでには落ち着いてますよ」
「落ち着かせて見せますって話の方がいいなぁ」
本当にまいっているらしい。押し付けるような言葉をメイコに放つのは珍しかった。
二人がそんな会話をしてから半月程たったある日、花見をしようという事になった。
研究所内は樹木が多く、特に桜の量は群を抜いている。桜の中では一番遅くに咲く種類ばかり植えてあるため、まとまって咲きまとまって散る。外部の人間が所内に入ることは出来ないが、外からもいくらか見え、ここ数年近所で名所扱いになっているらしい。だからと言って一般に公開する予定はない。元々低かった可能性は、先日のいざこざのお陰でゼロに等しいレベルになってしまっていた。
咲き誇る桜が見えるリビングでは、ミクとリンが花見の準備をしている。今日は全員仕事なしなので、いつもは午前午後とやる歌の練習を早く切り上げて、まだ日があるうちに花見をする予定だ。
「リンちゃん、そこの袋とってー」
「これ?」
ミクが指示すると、リンは手元にあった紙袋を取る。持ち上げた時、中身がチラリと見えた。
「……ミク姉、ネギ柄のレジャーシートとかやめようよー……」
「でも研究所にあったんだもん」
「なんでそんなものがあるの」
リンが呆れた顔をしていると、横で聞いていたメイコがあっさりと言った。
「ああ、多分それ、ウチの関連会社の商品よ。ミクのファンがネギグッズを集めるって言うんで、何種か出したらしいから」
「ナニソレ」
ミクはきょとんとしている。
「いわゆるファングッズね。リンもレンも、まあ私も色々出ていて、今月中旬にはルカのも作るとかなんとか」
「レジャーシートを?」
リンがすかさず聞くと、そう返されるとは思っていなかったメイコは吹き出して笑った。
「さすがにそれだけじゃないわよ。アクセサリのような小物が多いらしいわ。博士曰く、とても売れてるそうよ。ああ、そういえば、ミクはコンピュータゲームで何か作るって話を聞いたわ。知らない?」
その話もミクは知らなかった。
「初耳」
そしてミクは、はにかみながらこう言った。
「ファンの人が買ってくれるんだとしたら、光栄だな、そういうの」
「ま、ありがたい事よね」
ありがたいが、研究所に押しかけてきたり、事件を起こすのはやめてほしいなとメイコは思う。ファン同士の諍いも多いと言うし、攻撃的な人間が少数ながらいる事を歓迎はできなかった。
(人間と言うのはどうしてこう、争いをやめ……いえ、それはボーカロイドも同じね。ヒトを真似て作られた部分は人間のように行動する、そういう風になっているから)
ならば、ルカとミクが仲良くなれないのも当然なのかもしれない。人間だって、反目したまま、嫌いあったままの関係が存在する。ボーカロイドだって、嫌悪感しか沸かない関係が存在しえるのだ。しかし、あの二人がそうだとは思いたくなかった。
まじまじとネギ柄を見ていたリンが、口を開いた。
「よく行くお店だとそんなの売ってるところ見た事ないけど、あるんだぁ」
「実は皆がよく行くショッピングモール、あそこのおもちゃ売り場なんかには少し置いてあるらしいわ」
とは言え、この辺りであまり見ないのは事実だった。
「ホントに売れてるのかな」
ミクが言った。売っているところを見た事がないため、実感がないのだ。
そして、実感がないのは三人とも同じだった。三人が首を捻った時、キッチンのほうから声がした。
「主な売り場がインターネット上だからね。見た事ないのも無理ないと思うよ」
声の主であるカイトは、食事の仕度をしつつ聞いていたらしい。研究所はリビングとダイニング、そしてキッチンが一つの部屋のようになっているので、リビングで話をしていてもキッチンに筒抜けなのである。そして、キッチンから出てきたと言う事は、一段落ついたようだ。
「カイト兄さんはネット見れるんだよね。うらやましい」
「そう良い物でもないよ。でも、とりあえずミクたち関連の商品の人気ぶりは知ってる」
どれくらい?とミクが目で訴える。カイトは苦笑して、先日出た限定グッズが即完売した事をはじめ、ここ最近の売れ行きを教えた。かなり、どころでなく売れている事がわかって、ミクは胸をなでおろした。
「そっか。ちゃんと売れてるんだね。よかったー」
「よかったわね、ミク。それにしても、あんた昼間はそういうの見てるの?」
「ちゃんと研究所の事もやってるよ、掃除とか」
「外出が多いのは?」
「……メンテナンスと博士の用事に連れ回されてるんだ」
嘘だとメイコは思った。外回りは所長の仕事だし、メンテナンスなら研究所内でやる事が多いはずだ。
これ以上聞くなとばかりに苦笑いして口を閉じているカイトを、腕を組んで非難するような目で見ていると、その空気を察したのか、リンが明るい声で、それより仕度しようと言った。
「早くしないと日が暮れちゃうよ」
「そうね」
メイコはそれまでの雰囲気を捨てる事にした。今はそんな事をやっている場合ではない。
「ところで、レンくんはどこに行ったの?」
ミクがそんな事を言う。午前中の歌の練習が終わった時から見ていないなと気がついたのだ。
「居残りするって言ってたよ。レンったら手伝いもしないんだからさぁ」
「熱心なのはいいことだよ」
リンをそう言ってたしなめたのはカイトだ。そして、そういえばと言って天井を仰ぎ見た。
「ルカも練習すると博士に言っていたみたいだから、一緒にいるかもね」
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