通りすがり、見知った顔を見た。少し話しただけといえばそれまでの微妙な距離感。
向こうはレンを見て少し顔を歪めた。
「あ、レーコさん」
ミクが気が付いて名前を呼ぶと、軽く会釈してきた。
そしてそのまますれ違う。話す気などさらさら無さそうだ。
レンもすれ違いざま頭を下げて挨拶する。顔を上げると一瞬目があう。
それだけだった。けれど、レンにはそれだけでよかった。
通り過ぎて行く背中を見つめていると、横からリンがツンツンと肘を当ててくる。
「なんだよ」
「べっつにぃ~。面食いだよねー、レンはー」
「そういうんじゃねーよ」
恥ずかしそうにレンは言う。
「前に会ったって言ったの、レーコちゃんでしょ?ちゃんと挨拶しなくていいの?」
「ちょっと喋っただけだからいーよ」
それに、目を見ればわかる。
(元気そうだ)
無理していないだろうかと思ったけれど大丈夫そうだった。レンが思っていたより彼女は強かったのだろう。
溜めていた思いを少しだけ聞いた、それだけだが、元気な姿を見たら嬉しくなってきた。自然とレンは優しい顔になる。
「まだにやけてるー」
リンはそんな風にからかうのだった。
歌をやめるなと言われた。
言われても困る。やめているわけではなくて、やっていないだけだ。多くの人間が同じだと言うだろうが、カイトとしては別々である。
それにしても、見ず知らずの正体もわからない人間にあんなことを言われるとは思わなかった。心配されたなどという話ではなくて、何か別の人間に重ねられただけだろうが、それでも驚いた。
あれで知り合いになったというわけではないだろう。互いに名前も名乗らなかった。ただ少しだけ話しただけ、それだけだった。この先も会うことはないかなとカイトは思う。カンだが多少の理由はある。彼女は芸能の世界の人間、自分はただのアンドロイド。この先こういう場に来ることはあまりないだろうから、もう会う可能性は少なかった。会いたいわけでもないからそれでいい。そんなものだ。
「……はぁ……」
やけに静かなロビーにため息が響く。妙な疲れを感じた。椅子に腰掛ける。時計を見ると、意外と時間が経っている。
カイトはぼんやりと虚空を眺めていると、五人分の足音が聞こえて来た。廊下の向こうから声もする。
みんなが戻ってきたのだ。
周りに疲れを伝えるわけにはいかない。そのためにはなるべく笑顔に、なるべく明るく。
「おつかれさま、どうだった?」
優しげな笑顔にミクはVサインを返した。
「みんないい人だったよ。歌の話も聞けたし」
「そう、それはよかったね」
好意的に見えたなら、それはそれでいい。
ステージ真正面の二階席、そこを少しズレたところにある出入り口の前に博士とカイトは立っていた。
進行は順調で、この次がミクたちの出番だった。
「今年最後の仕事も何とか順調に終わりそうだ」
博士は感慨深く言う。この仕事が終われば明日の昼まで自由時間だ。昼からは正月の特別番組に出なければならないが、それまで時間が取れるのは喜ばしい。
「今年は本当に色々あったねぇ。考えてみれば去年の今頃にリンとレンが研究所に来て、それから程なくカイトが来て、カイトは開発部と研究所行ったりきたりだったけど、リンレンのデビューとか……。終わってみると色々あったよ」
「疲れましたか?」
「満足してるって言うのが一番のところだね」
博士は、晴れ晴れとした表情でカイトを見る。
「カイトは?」
「ここまでめまぐるしく変化したのは初めてです。その、一年が過ぎるのを早く感じました。まだ4月頃みたいな気分です」
そこで一度区切り、カイトの視線はきらびやかなステージ上に移動した。そして、ぼうっと遠くを見ながら言った。
「それまでは、一日の終わりをとても遠く感じていました」
カイトは研究所に来るまで、小さな部屋の中で誰にも会わず一日を過ごすという生活を送っていた。そう感じるのも当たり前だろう。博士はなるべく明るい声でカイトの過去を慰める。
「人間でも20を過ぎるとそんなもんだよ。時間は待ってくれないさ」
「ええ。来年も色々ありそうですね」
「まずは03かなぁ。会った?」
「少しだけ見ました」
なるほどと頷いた。見るという語を選択したということは、意識があるときに会ったわけではないのだろうなと博士は思った。カイトは意外と語彙選択を律儀に行うのだ。
「うーん、大変になりそうだねぇ」
「何か心配事があるんですか?」
カイトが聞くと、博士は深刻そうな顔をして、こんなことを言った。
「バイリンガルなんでしょ?僕、英語できないんだよねぇ。言葉通じなかったらどうしよう」
「日常会話は英語じゃないと思うんですけど……それにしても博士が英語できないなんて意外です。論文とか英語じゃないんですか?」
「だから本格的な研究者になれなかったんだよ。最近は翻訳が早くてそれに頼っちゃうし。機械翻訳の精度も上がってきたし。まあこういう、学校のセンセイみたいな仕事があってるからいいんだけどさぁ」
「むしろ保父みたいですよ、博士は」
「そこまで自分らの年齢を下げなくてもいいと思うんだよねえ」
「子供みたいなものでしょう」
確かに博士にとっては子供みたいなものだ。それは、自分の子供、家族みたいなものだという意味である。カイトに言えば言葉の意味はわかってくれるだろうが、実感してくれるかどうか。
(来年の課題かな)
博士はそう結論付けた。
舞台の方では男性歌手グループが歌い終わり、司会者がわざとらしい雑談で次の出演者の話を絡めている。
次はミクたちの出番だ。
イントロが始まりミクたちがステージに出てくる。会場は熱気に包まれた。楽しそうに揺れる群集を見ると、博士も自然とテンションが上がってくる。導入はさすが、失敗もなくすぐに会場内の人々の心を掴んだ。音は広がって、光の渦が溢れている。そうして歌が始まった。
博士の隣にいたカイトは、無言のまま後ろを向くと、出入り口の向こうに掛けていく。
声を掛ける間もない。扉の開閉音は音楽と歓声に飲み込まれる。閉まる寸前、僅かな隙間から見えた、耳を両手で塞ぐカイトの姿に博士は嘆息した。
そんな博士たちを置いて歌はサビに突入する。熱気は最高潮に達していた。
歌からミクたちの本気が伝わってくる。特に今回はカイトが会場にいるということで、密かに、本当に密かに張り切っていたのだ。博士はそれを知っているだけに、カイトの行動が少し悔しい。
会場に居たままにしたのはお節介だったのかもしれない。先に今日の宿泊先に行ってもらってもよかったし、もしかしたらそっちのほうが本人の為だったのかもしれない。
答えは出ないまま歌は二番へ。よくあるサビのリピートがない曲だから、二番が終われば曲も終わりだ。
まだ戻ってこない。もう終わってしまうというのに……。
カイトを呼びに行こうかと片足を踏み出す。するとその時カイトが扉を開けて戻ってきた。
沈んだ表情のカイトは博士の横に来ると、小さく言った。
「すみませんでした」
「……戻ってきたからいいよ」
博士はそれだけ言ってステージに目を向ける。ちょうど二番のサビに差し掛かったところだ。マイクを手に楽しそうに歌うミクたちが見える。それを二人は無言で見ていた。周りの手拍子や声援がうるさいほどである。
アウトロに入った瞬間に、カイトは瞑目した。
仕事を終えたミクたちは宿泊先のホテルの部屋で一休みしている。
あと三十分で年を越す時間で、リンとレンは眠気に耐えている状態だ。今年は年越しをみんなでしたいのだと言う。
男性陣は隣の部屋に泊まる予定だが、なぜかレンを追い出してしまっていた。
ミクとメイコはテーブルに備え付けてあった二つのイスに座って紅茶を飲んでいる。さすがに疲れたのか、深く腰掛けていた。レンはテーブル近くにあるベッドの上で胡坐をかいている。その横で座っているリンが足をブラブラと振っていた。
「博士とカイにぃ、なにしてるんだろう?」
「さぁ」
レンが眠そうに相槌を打つと、リンが座っていたベッドに倒れこみ、ボスンと言う音と共に埃が宙に舞った。そんな様子をミクは優しく見守るように見ていた。
「……二人とも、今日は疲れた?」
ミクがリンとレンに聞くと、ふたり同時に首を振った。ミクは笑う。
「うそ」
「本当だよ」
そうは言うものの、眠たそうだ。
「楽しかったよ。レンもでしょ」
「うん」
「よかった」
微笑んで紅茶が入ったカップを少し傾けてまわし始めた。
折角全員で新年を迎えられそうなのに、とリンは思った。もう少しで新しい年なのに。
「本当に何してるんだろう」
ぽつりと小さく言ったその時、部屋のドアをノックする音がした。
「多分博士とカイトさんよ」
ミクが嬉しそうに言って迎えに行く。部屋の入り口は一枚扉を隔てた向こうだ。
少しして、声が聞こえた。男の声とミクの声だ。
微かに聞こえる。博士たちが来たにしては様子がおかしい。そう感じたメイコは静かに立ち上がると、ミクの元へ向かうのだった。
ミクは見知らぬ男が目の前に立って、馴れ馴れしく話しかけてきた事に困惑していた。なぜここにいる事が知られたのか、警備はどうしたのか、そもそもどうしようと考えるがまとまらない。
「やっぱ初音ミクだ、感激、すっげ、かわいー」
年齢不詳の男は空調の効いたホテルの中にも関わらず分厚いダウンを着ていて、ひどく不自然だ。
「は、はぁ、あの」
「ねぇねぇ、他のボーカロイドもいるんでしょー?中入れてよー」
「あ、あの」
なんとなく危ないという気がして追い払おうとしたが、なんと言っていいのかわからない。
ミクの後ろの扉が開いてメイコが出てくる。メイコを見て男はにやりと笑った。嫌な笑みだとミクは思った。
「なんですか、あなた」
「いちファンでーす」
メイコの見立てによると酔っているようだ。テンションがおかしいし、呂律がまわっていない。
ミクを守るように前に出ると、メイコは相手を睨んだ。
男はニヤニヤと笑いながらメイコの腕を掴む。メイコは顔をしかめて振り払おうとするが、最大の力は出せず振り払えないでいた。アンドロイドは人間相手に暴力行為ができないためだ。
隣の部屋に博士とカイトがいるという事がわかっているにも関わらずここで大声を出すという選択肢が浮ばなかったのは、ひとえに、メイコもミクも混乱していたのだろう。
「やめてください」
「いいじゃんいいじゃん」
メイコは、とにかくミクとリンとレンを守らなければと身構えると、どこからかドアが開く音がした。
「……お客さん~?」
博士が部屋から出てきたらしい。
「なんだてめぇ」
「それはこっちのセリフかな~、関係者以外立ち入り禁止だよここ」
茶化した言い方だが目は明らかに笑っていない博士に、男は逆切れした。顔を真っ赤にして博士に掴みかかろうと踏み出し、胸倉を掴む。その様子にメイコとミクは思わず目をつぶった。
「暴力は……」
「うるさ」
突然、ドアが開く音がして、何かがぶつかった鈍い音がした。男の声が不自然に切れる。
メイコとミクが目を開くと、驚いた顔をしている博士と、倒れている男と、ドアを開けている格好のカイトがいた。
このホテルは外開きの扉を採用している。カイトがドアを開けたちょうど先に男がいたようだった。
「……大丈夫ですか?」
カイトは足元に倒れている人間を見た後言った。だが、大丈夫かと聞きつつもカイトは助け起こそうともしない。
博士はため息をついて頭を掻いた。
「はぁ、まったく。とりあえず警備の人呼ぶねぇ。……カイト、後でね」
博士はそう言って部屋に戻っていった。内線で呼び出す気のようだ。
カイトは驚愕した顔のまま会話を聞いていたミクとメイコの方を向いて、安全を確認する。
「大丈夫?」
「う、うん、大丈夫」
ミクの返事はどぎまぎとしていた。
メイコは、不審そうにうつぶせに寝転がっている男を見る。顔は見えない。
あんなにいいタイミングでドアを開ける事があるだろうか。わかっていてやったのか。アンドロイドが人間を物理的に傷つけると確信している状態で行動できるのだろうか、メイコには疑問に思える。
そんなメイコを他所に、扉の隙間から微かに聞こえる博士の声を聞いたカイトは、ミクたちに尋ねた。
「リンとレンは」
「そういえば」
ミクとメイコ、それにカイトが二人の様子を見に部屋に入る。
すると、リンとレンは、ベッドの上で寝息を立てていた。
「今の騒動に気が付かなかったなんて、リンちゃんもレン君も図太いんだから」
それもあるだろうが、二人とも本当に疲れているのだろうとメイコは思った。
二人は人の気配に感づいたのか目を覚ました。
「……あれぇ……」
同時に同じような動きで起き上がり、どうしたのとでも聞くようにリンとレンは辺りを見る。その様子が微笑ましくてミクたちは思わず破顔した。
「まあ、何事もなくてよかったわ」
メイコは安堵した表情である。
寝ていた二人がきちんと覚醒したのを確認すると、カイトは部屋の隅に置いてあったバッグから白い包みを二つ取り出した。
「はい」
渡されたリンとレンは目を丸くしている。
それを見て、ミクとメイコが、抜け駆け禁止だと言った。
「でも時間見ると僕は急いだほうがいいと思うよ」
「本当だ」
ミクとメイコも自分の荷物の中から包装されたものを取り出して二人に渡した。
「な、なに?」
「お誕生日、ほら、時期が時期だからちゃんとできなかったでしょ。もうすぐ年明けちゃうけど、お祝いしようと思って。みんなで示し合わせてたの」
「さっきからカイトと博士がとなりの部屋にいたのは……」
「レン、ご明察」
博士が部屋に入ってくる。入れ替わりにカイトが扉の外を確認しに行き、周りを見回した後戸を閉めた。先程の男は博士が警備に引き渡し済みである。
「もちろんケーキもちゃんと用意してるよー」
にこやかに笑って、手に持っていた箱からケーキを取り出した。
「ああ、あと5分もない、早く用意しよう」
ミクが足踏みをしながら言う。
みんなはうなづいて、テーブルにケーキを載せると、そこに蝋燭を二本さした。
「今の人間の数え方だと一本だけど、二人の分足して二本にしときましょう。多いほうがよさそう」
多少大雑把だが、メイコの意見に異論はないようだった。
電気を消し、用意していたマッチをこすると、ぼんやりと暖かい光が灯る。それを蝋燭に移し、お決まりの歌を歌ってリンとレンを促した。
二人は少し躊躇して、そして、同時に息を吹きかけた。
ふっと消える炎、沸き起こる拍手。
時計の針はちょうど0時、新しい年の始まりを指し示している。
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