パーキングエリアで犬を見かけると、触りたい気持ちでいっぱいになります。
朝に昨夜の話を聞いたミクとリンとレンは、その日一日気になって随分失敗をしてしまったらしく、メイコはその事で大変怒っていた。仕事に差し支えるようではいけないと、彼女は夕食が始まってからというものずっと口うるさく言うので、怒られていた三人はうんざりしていた。
怪我をしたはずの鈴木博士は、いつものように不機嫌そうに座って食卓についていた。今日は一応病院に行ったらしいが、なぜか彼は研究所にいる気であるらしい。
鈴木と田中が食べ終わった時、田中博士は突然こう切り出した。
「申し訳ないんだけど、みんな開発に行ってもらいます」
「開発?」
「また行かなきゃいけないの?」
告げられると、レンとミクはさっそく不満を漏らした。
「そう言っても、ルカの事もあるし……命令だし……仕方ないのよ」
「ほら、レンもミクも、仕方ないんだから、我慢しましょう」
「わかったよ」
「はぁい」
あんまりな嫌いようである。そんな中、たしなめるメイコの存在はありがたいと田中は思いつつ、いつの間にかコピー用紙を取り出した。隣にまわしてと隣に座っていたメイコに手渡す。コピー用紙一枚には表が印刷されており、びっしりと予定が書き込まれていた。
「かなり長くやるんですね」
「これでも短くするよう交渉したのよ。あそこのやつら、あれもやりたいこれもやりたいって何でもかんでも申請し出すから、とにかく自制がないの。きかないじゃなくてないの」
自分もそこの人間だった事をすっかり忘れた発言である。
行儀が悪いとわかっていながらも、食べながら表を見ていたレンは、その表にないものに気が付いた。
「あれ、リンは?」
リンの名前がないのである。
「今のところ大丈夫だろうって言うんで、今回開発行きはなし」
その言葉に、当人より先に待ったを掛けたのはレンだった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ、リンが一緒じゃないと……だって、まずいんじゃないのか」
レンは驚いた後、動揺した。研究所にリンを一人で残すなんて、冗談じゃないと声を荒げた。
田中は小首を傾げ、あっけらかんとした表情で、レンに聞く。
「やっぱり一緒じゃないと寂しい?」
「ちが、そうじゃない、寂しくなんてねーよ!でも、一緒じゃないと、その、困る……」
だんだんと語尾は小さくなっていく。レンは言葉の途中からうつむき加減になると、呆然と呟いた。レンが心配性だというのもあるが、やはりレンはリンとの繋がりが強いのだ。
心配を吹き飛ばそうと、田中はにこりと笑い、大丈夫だと言った。だが、それがまたレンを心細くさせる。田中の笑い方は、カイトのあの胡散臭い笑顔にずいぶんと似ていた。
しかし、ここまで心配しているのはレンだけだったのかもしれない。もぐもぐと咀嚼をやっとの事で止め、ごくりと嚥下し終えたリンは、横の席のレンの背中を軽く叩いた。
「はー、レンはわたしがいないとダメねー」
「オレがいないとダメなのはリンだろ!」
「そんな事ないですよー、一人でも大丈夫だって。まったく心配性なんだから。それに、これ見る限り、新井さんは研究所にいるみたいだし」
そう言ったリンに、田中が微笑んで言う。
「ああ、他にもちゃんといるから、一人ってわけじゃないわよ」
「他?」
「今は秘密」
お楽しみにと、口に人差し指を当てて言った。
次の日、リンと新井が見送る中、四体のボーカロイドと二人の博士は出立した。
門の前で遠ざかる車両の影を見ていると、リンは無性に、ため息をつきたくなった。ぽっかりと穴が開いたような気分だ。
「……んー……さってっと、今日もがんばろ!」
振り切るように言い、仕事に行こうと研究所に向かって歩き始める。
リンの横にいた研究所の研究員の新井は、そんなリンに途中までついて行ったが、門へ向かっていたらしい警備員を見つけ、ああと声を放った。彼女は脇に抱えていたケースから紙を取り出し、その警備員の下へと小走りに急ぐ。
彼はこの研究所が出来た時から警備員をしており、ボーカロイドたちも博士たちも顔なじみであった。老齢と中年の間ほどの外見だが、意外と歳は重ねていないのだと、山田博士は言っていた。その山田博士は、未だ研究所に帰ってくる気配はない。
気がついた警備員と新井は挨拶をし、天気の話題から始まって研究所の警備について会話している。リンはあまり興味がなかったので、戻るよと言って素通りする。屋内に戻って玄関で靴を脱いでいると、遅れて新井が入ってきた。
「なに話してたの?」
「警備の問題もあるから、他のみんなの予定を教えてたんだけど、何か問題?」
どうやらケースから取り出していた紙は、リンたちも昨日貰った予定表のようだ。
質問に特別な意味があったわけはないので、首を横に振って否定し、リンは今日の仕事について考え始めていた。
渋滞もなく半ばまで来たが、人間にしてもアンドロイドにしても休息は必要だ。高速道路のパーキングエリアで休憩をする事になった一行は、車を降りるとまずトイレに向かった。面白い話だが、アンドロイドは排泄するように出来ていて、ボーカロイドもそのように人間を模している。ちなみに、アイドルがトイレに行かないというのは、当然都市伝説や妄想の類である。
男性用の個室トイレから出てきたレンは、微妙に集まり始める視線に避けるように手洗い場へと急ぐ。空いていた蛇口を捻って目の前の鏡を見ると、左側の水道を使っているのが鈴木博士だという事に気がついた。
「……ども」
レンは、やはりこの人は苦手だと思った。
元々、初めて会った時の印象が良くない。田中博士と口論しているところに出くわし、その時の言い草がレンとしては、多分ミクやメイコも同意するだろうが、とても嫌なものであった。その上、ルカの思考の基礎を作った人間だと聞いて、更にいい印象を持てなくなっている。
「鏡音リンの事が心配か」
唐突に鈴木博士は言い出したので、レンは何を言い出すのかと彼の顔を見る。身長差のせいで、完全に見上げる形だ。
「心配だよ。あいつ、一人だと何もできないんだ」
「そうだと鏡音リン自身が言ったか?」
「……いや……」
リンは、彼女は一人立ちしようとしている。もちろん、レンを必要としなくなったわけではない。時には甘えるし、現にルカが来る直前のリンは、レンの関心がルカに行くのではないかと怯えていた。だが、そんな事があったとしても、常時絶対的に必要としていた時期は終わっている事をレンは理解していた。昨日、彼女が言った大丈夫という言葉が、強がりであって欲しいと望むのは、きっと薄暗いエゴでしかないのだろう。
「田中も言っていたが、何も考えていないわけではない」
「新井さんに任せるだけってのは、あ、いや、あんまり良くないと思う。山田博士がいてくれたら、せめて博士がどうなってるかだけでもわかれば、リンも安心すると、オレは思うんだけど……」
見下した冷たい視線を向けていた鈴木が、小さく納得したように頷いた。ハンカチを取り出し手を拭きながら、彼はこう言った。
「処分なら連休明けに既に決まっている。三ヶ月の減俸だけだ」
知らなかったレンはへぇと相槌を打ち、水を止めた。後ろのポケットから黄色のハンカチを取り出しながら考えを巡らせる。
「……あれ?そうすると、もう戻ってこれるんじゃないのかよ」
減俸だけという言い方なら、他の罰はないのではないか。
「そうだな」
鈴木は当然だといった顔で同意した。
「まじ……じゃない、本当かよ、じゃなくて、ですか?」
動揺しているのか、素の話し方をしてしまい、その度にレンは訂正している。鈴木は訂正毎に眉を吊り上げた。
「ボーカロイド相手の仕事で適任者などそう簡単に見つからない。山田たちは適正があると認められて研究所を任されているのだから、そう変わったりはしない」
「それなら、なんで戻ってこないんだ?」
問いに、鈴木は答えなかった。レンを一瞥し、平日にしては多い人の中を無遠慮に抜けて外に出る。
「また何も教えても貰えないのかよ。なんだよ、くそっ」
レンは小さく舌打ちした。その様子を多数の人間に見られている事に気がついて、顔が赤くなる。危ない、ここは公衆の面前なのだ。愛想笑いで誤魔化してから外に出る。
すると、トイレ近くにあるベンチに、ミクとメイコがいるのが見えた。
何をしているのだと思ったが、理由はすぐわかった。ミクが座り込んだ先に、それはいた。
「わんわんー。かわいい、かわいい、かわいいー」
ミクはひたすら目尻をだらしなく垂らして、かわいいを連呼している。
「……」
「あら、レン。遅かったわね」
「犬……?」
「こちらの婦人の飼い犬だそうよ」
メイコがそう言ってベンチに座っている婦人を紹介する。レンは頭を軽く下げると、女性はおほほと恥ずかしげに笑っている。実はこの女性はレンのファンで、この後ずっとこの事を自慢し続けるのだが、レンたちには関わりのない話である。
「ミクがさっきから犬を気に入っちゃって……すみません。ほら、ミク、そろそろ行くわよ」
「ええ、もう?」
「鈴木博士が車の方に行くのが見えたもの。待たせると怒られるわ」
「はーい。わんちゃん、じゃあね」
「田中博士とルカは?」
「飲み物買いに行くって。レンはオレンジジュースでいいでしょ?」
「……いいけど」
レン自身、少し子供っぽいかなと思っているが、ジュース、とりわけ柑橘系の甘い飲み物が好物だったので、悪いと言う理由はない。
別れを惜しむミクの手を引きながら三人はこれから数時間世話になる車へと向かう。
「犬、かわいかったー」
「動物もいいわね。レンも、猫やウサギやハムスターは嫌なようだけど、犬ならいいでしょ」
「別に猫もウサギもハムスターも嫌いじゃない。ちょっと、ちょっとだけ苦手なだけだ」
「ふふ、小さい上になぜかレンは懐かれるからね」
「私はどれでも大歓迎!猫もウサギもハムスターも犬も、どれもそれぞれかわいい!」
ミクは楽しそうにそう言い、メイコが頷く。レンはわかりにくく微笑んだ。
車に着くと、いつの間にかルカも田中も戻っていて、レンたちが乗り込めば出発できる態勢になっていた。急いで乗ると、運転手である鈴木はさっさと発進させてしまう。ミクは少しの間、犬を見つけようとしていたが、すぐに高速道路に乗ってしまい、見るのは叶わなかった。
レンは窓の枠に肘をついて外を見る。晴れた空から降り注ぐ太陽の光がレンを照らす。田園風景が流れていく様を、静かに見ていた。
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