フォロー係が頼りない。
階段を駆け上がり、屋上に続く扉を開け放った。そのまま真っ直ぐ屋上の端、柵のあるところまで走る。
外は夜。乾いた空気が距離を縮めているかのように空が近く感じられる。
数秒遅れてカイトが踊り場に現れた。意外な事にカイトもルカも走る速度はあまり変わらない。カイトは旧式ではあるが、身体の能力そのものに大きな差はなく、さほど距離が開かないためルカを追うのは容易だった。
彼は屋上に出ると、扉を丁寧に閉める。向こうの空を見ているルカとの距離は数メートルだ。
カイトの視線を感じ、ルカは柵の上に置いた手のひらを見る。力が入っている。原因が緊張か別のものか、それはわからなかった。
「……わたくしを責めに来たのですか」
「そう思う?」
カイトはルカに問い返す。
「わたくしは、謝る気はありません」
問いに答えず自分は間違っていないと言うルカに、カイトはうなづく。
「僕には謝らなくていい。君は間違っていないから」
カイトに肯定されるとは思っていなかったルカは、まさかと思い後ろを振り向く。彼は微笑んでいた。
どうして、と、ルカの口だけが動いた。
「今日はちょっと驚いた。新しいところに来てさっさと練習室に篭ろうとするのは、ボーカロイドでも珍しいと思う」
突然何を言い出したのだとルカは思った。そんなのは当たり前だ。
「当然の事です。わたくしは早くボーカロイドとして歌う仕事をしたいのです」
「僕は君のプライドを隠さないところが好きだよ。君は、僕の事を嫌いだろうけれど、でも他の、例えばめーちゃんの事は好きみたいだね」
「好き嫌いの問題ではございません。ボーカロイドである先輩方の事を尊敬しております」
「ボーカロイドでないなら敬意も好意も持たないと」
「そうは言っていません。ですが、今は」
「今は、まだそう言う相手に出会っていないだけ、だよね」
確信を持ってカイトは言った。ルカは、グッと言葉に詰まる。
靴音が響き、ルカの後ろで止まった。彼は空を見上げた。ちょうど冬の星座が見える。
「風も雲もないからよく見える」
つられてルカも上を向く。確かに、遮るものがない空は近く、群青の中に瞬く光は、とても綺麗なものに見えた。思わず白いため息をつく。
「本当はもっと出ているんだけど、ここは結構明るいから見える数は少ないんだ。もっと静かで明かりの少ないところに行くと、いつもは見えない星が何万、何億と言う量で見えるよ」
「その程度、わかっています」
「そう?」
カイトはルカの方を見ると、本当にそうかと問いかけるように小首を傾げた。
「物知りなんだ」
「日常で使う知識はあります」
「うん、ボーカロイドは幸せな事にみんなそうだよね」
からかう様な言い方がルカの癪に障った。
気が合わないのか、一々彼の言う事が癪に障る。しかし、気遣おうと言う気はなかった。先輩でもなんでもない相手だ。
表面上を見る限りは優しい人格のようだから、さっきの事で、励まそうだとか思っているのだろう。励ましなど要らないのに、お節介な事だ。
もしかしたら、嫌わないでやって、だとか、そう言う話だろうか。
嫌うも何も、彼女らは先輩だ。ボーカロイドなのだ。尊敬している。だから、嫌うはずがない。それこそ大きなお世話だ。
イライラし始めたルカは、ムッとした表情でカイトに言う。
「その程度の用なら……」
「ミクの事、嫌わないでやってよ」
苦い笑顔でカイトは遮った。
予想通りの言葉にルカは憤り交じりのため息をわざとらしくついた。
「言われるまでもありません」
はっきりと言った。
自分自身は間違っていないけれど、相手は尊敬しているボーカロイドの一人なのだ。多少理不尽な事を言われたとしても我慢できる、ルカはそう思っている。
そんなルカを見透かすように、カイトは言った。
「ルカは理不尽だって思っただろうけど、ミクはミクなりに正しいと思うことを言ったんだ。自分が間違っていない事で、相手が間違っている事になるとは限らない。ルカは間違ってないけど、ミクも間違ってないから、それだけは考えておいてね」
何を言っているんだろう。こっちが間違っていないなら、向こうが間違っているのに。
「だから、僕には謝らなくてもいいけど、ミクには……出来れば謝って欲しいけど、謝らなくてもいいよ。でも、ミクの正しさには目を向けてやって欲しいな」
カイトはルカに背を向ける。そのまま踊り場を続く扉の方に歩きながら喋り続ける。
「ルカやミク達は、明るくても見える星みたいなものだ。役割を果たせるという事はそれだけ幸運に恵まれている。気が遠くなる程の星々の中でも一際輝くような、幸運の星の下に生まれている」
そしてドアノブに手をかけた時、ルカを見ずにカイトは言った。
「時々、夜空を見渡してみるのもいいんじゃないかな」
そう言って、カイトは研究所の中に入っていった。
彼はなんなんだろう。よくわからない事を言いたいだけ言って、いなくなってしまった。
正しさに目を向ける?星?幸運?意味がわからない。
自分はボーカロイドとして当たり前の事を言っているだけなのに、先輩であるミクには頬を打たれるし、よくわからないアンドロイドに意味不明な説教をされるし、ひどい一日だ。
早々こんな事になって、これから上手くやっていけるだろうか。
やっていけなくても、社のボーカロイドである自分はここで生活しなければならない。出来る出来ない、ではなく、やらなければならないのだ。
ボーカロイドとしての自負がある。だから、やっていけるはずだ。出来るはずだ。
そう決意すると、突然風が吹いて、その寒さで体が震えた。この季節、流石に防寒着なしで外に出ているのは厳しい。
あまり戻りたくはないが……自室なら誰も来ないだろうか。とにかく今は他人に会いたくない。
とにかく、暖が取れる場所で、人が来ないところに行こうと、ルカは研究所の中に入った。
階段を下りようと手すりに手をかけた時、階下の踊り場に、黄色の髪が見えた。白いリボンがまるで生きているかのように揺れているのを見て、どういう構造なのだろうと、ルカは感心した。
「あ、ルーちゃん」
音でわかったのか、リンは上にいるルカを見上げた。安心したような、少し迷っているような笑みを浮かべている。
「リン先輩」
ルカは無表情のままだ。
「お騒がせ致しました」
「う、ううん。……ルーちゃん、怒ってる?」
おずおずと聞いてくるリンに、ルカは表情を変えず答える。
「怒っておりません」
「よかった。あの、カイにぃ、どんな事言ってた?さっきこっちの方から来たから、お話したんだろうなって思って」
それを聞かれても困る。何が言いたいのか、わからないのはこちらだ。
いや、一つだけ、理由はわからないが、確定的にわかる事を言っていた。
「……自分には謝らなくていい、と、言っていました」
リンは一瞬、驚いた顔になり、そしてすぐ視線を下方に逸らした。
「そっか、カイにぃには謝らなくていいって言ったんだ……」
そうしてリンは黙ってしまった。
話はそれだけだろうかと思いながら、ルカは階段を下りていく。同じ階に下りて自室に行くか少し迷った後、一階の練習室に行く事にした。
ルカが一階へ続く階段の段を三つ下りたとき、リンは顔を上げてルカの方を見ると、口を開いた。
「カイにぃはね、何度も廃棄されそうになってるの。大丈夫だったけど、それでも、わたしは廃棄されそうになるたびに怖かったし、嫌だった。開発の人に食ってかかったこともあったよ」
ひとりでに話し出したリンの方を見る。沈んだ顔をしていた。
「昔は確かに歌えなかった。でも直って、今は歌も歌える。今まで本社が許してくれなかったけど、今度お仕事の許可もらえるかもしれないって、博士が」
「そうなのですか」
淡々と返す。特に感想がないからだ。そんな事を話されても、どう答えればいいのかなどわからない。
「壊れても、直したら大丈夫な可能性だってあるんだよ。……ルーちゃんは、それでも壊れたらいらないって言うの?」
泣きそう、というような表情をしていた。瞳が揺れて、それでも視線だけはルカから外れない。
だけど、そんな顔をされても、答えは一つだ。
「壊れたものに価値はありません」
信じられないものを見たように、目を見開いて、それでもルカの目を見たままリンは固まる。
ルカも動けずにいた。今後の為に謝ったほうがいいだろうか。なんと慰めればいいのだろう。
十秒ほどそのままでいた二人のうち、はじめに動いたのはリンだった。リンは、ルカから顔を逸らた。
その反応でむしろルカが慌てる事になった。これは、まずいかもしれない。
「あの、わたくしは」
言いかけ、先が浮んでこず口をつぐんだ。
「……ルーちゃん、困らせてごめんね。用事はそれだけだから」
リンの声は小刻みに震えている。
「いいえ、わたくしこそ、ご迷惑をおかけしました」
ルカは会釈し、静かに段を下っていく。
その後ろで、リンの声が聞こえた。
「ルーちゃんが壊れても価値がなくなるなんて、絶対思わないよ。もしもルーちゃんが廃棄されたらすごく悲しいって思うから、だからそんなこと言わないで。お願いだよ」
ビクリと肩が揺れて、ルカの足が止まった。
言われた言葉が頭の中で響いている。意味の咀嚼をする暇などなく、思考が嵐のように荒れて、言語化できない意思が浮んでは消える。
まとまらなさを恐れながら、こわばった顔で振り向くと、リンはすでにそこにはいなかった。
鬱蒼とした空気は明かりがついているはずのリビングを暗いものにしていた。
「あんな風にミクが怒るなんてね」
「うん……」
沈鬱そうな表情でメイコが言うと、レンが小さく返事をする。
みんなが集まっていたはずのこの部屋も、今は三人しかいない。叩かれてすぐ出て行ってしまったルカ、それを追いかけたカイト、ひとりにしてと言って部屋に戻ったミク。そして少ししてからミクの様子を見に行ったリン。
最終的にここに残っているのはメイコとレンと博士だけだった。そして、博士はお茶をいれると言って台所にいる。
「はじめから、ミクとルカの間には不穏な空気はあったけれど、まさか一日で爆発するなんて思っても見なかったわ」
「ふたりのこと、全然気が付かなかった。オレ、浮かれてたのかも」
「しょうがないわよ」
うん、と、返したレンに元気はない。
「ふたりで反省会~?」
キッチンに行っていた博士がマグカップを三つ持って戻ってきた。レンとメイコの前にカップを差し出し、自分のをテーブルの上に置いて座る。
レンは受け取りながら博士に聞く。
「ありがとうございます……博士いいんですか、カイトに任せて。あんまり好転するとは思えないんですけど」
「まあねぇ。でもカイトの意思をルカが知っとかないと、状況は動かないと思うよー。それにしても、ここまで相性悪いとはねぇ。苦手なんだろうなあ」
「相性で片付く問題ですかね。ミクとルカは」
「ん、違うよ。ルカとカイトが相性悪いって話」
メイコは目をぱちくりとさせた。ルカが一方的に嫌っているようにしか見えない。
「いやぁ、カイトも苦手っぽいよぉ?うまい事あしらえないから変な構い方してるけどさー」
「ああ、カイトは困ると煙に巻こうとするものね」
「ルカは、そういう曖昧な態度嫌いっぽいもんな。相性スゲー悪いのかもしんない」
博士とメイコとレンは同時にため息をついた。
「とは言っても、このままでいられるわけでもなし、どうにかなるでしょー」
「博士、楽観的過ぎると思います」
「メイコは悲観的だねぇ」
「普通です」
「うんうん、普通に悲観的だ」
「違います!」
二人が軽口を叩いたお陰で、少し和やかな雰囲気になったとレンは思った。今、この三人が和やかになったところで問題が解決するわけでもないが、少し気分が晴れた気がした。
「ミク、ミク。カイトだけど」
コンコンと音が聞こえたが、ミクは返事をする気にはならなかった。
うつぶせになり、枕に顔をうずめたまま、カイトの出方をうかがう。
できれば会いたくないし話したい気分でもない。このまま立ち去ってくれないだろうかと勝手に期待する。
「ミク……」
つぶやくようにカイトはミクの名前を呼んで黙った。
部屋の中にある時計の針がカチカチと時を刻んでいる。まだ扉の向こうにカイトの気配があった。
(寝たと思ってくれればいいのに。どうか入ってこないでください、このまま何も言わないでください)
迷惑をかけてしまった。勝手に怒って、勝手に怒鳴って、勝手に殴って、それをカイトに尻拭いさせて……。
(ケンカはダメとか、リンちゃんとレンくんのこと言えない。手本を示すべき自分がこんなことをするなんて、姉失格だ)
それでもミクは、殴ったこと自体を後悔しているわけではなかった。
(ひどいことを言った。だから叩いた。それだけは絶対に譲れない)
たぶんルカは悪くない。言われたことを、教えられたことを守っているだけだ。
それがわかっていても、ルカの言葉を、ミクはどうしようもなく許せないと思う。
間違ったことは、していないはずだ。
「ミク、返事しなくてもいいから聞いて欲しい」
カイトの声が聞こえて、ミクは緊張して耳を澄ます。
「僕はルカに侮辱されたと感じはしなかった。ほら、前言われた仕事の件、本社に問い合わせたら駄目だって返ってきてね。現状はルカの言う通り、ボーカロイドとしては不要な存在だ」
(え?)
初耳だった。驚いて顔を上げる。
(そんな、せっかく、せっかくカイトさんも歌う仕事が出来る機会だったのに。なんで?なんで?)
何故と言う単語がぐるぐると渦巻いている。嘘でしょうと思わず声が出そうになった。
「もっともな、正しい事なんだ。あまりルカを責めないでやって欲しい。あと……彼女は誰かがいないと、そのうち駄目になってしまう。彼女は、歌えなくなった先を刷り込まれたが故に努力している。そんなのは苦しすぎる」
だから、と、カイトは言った。
「ルカに一番近いのはミクなんだよ。見えているものも、立っている場所も、とても似ている。だから、助けてやって欲しい。苦しさで倒れそうな時に、そっと支えてあげて欲しい。……今はまだ無理だろうけど、きっとミクなら仲良くなれるって、僕は信じてる」
(そんなのは無理だ。だって、侮辱されたんだと思った。あんな風な言い方ひどすぎる。まだ、全然許せない)
無理だよ……、そうミクは小さくつぶやいた。
「勝手ばっかり言ってごめん。僕はそろそろ行くよ。邪魔して悪かった。…………あと、さっきとは矛盾してるけど、怒ってくれた事、それから兄さんって呼んでくれた事、とてもうれしかった」
カイトの気配は、ありがとうと言って消えた。
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