『アンドロイドは電気羊の夢をみるか』文章保管用ブログ。
Posted by ささら - 2009.06.10,Wed
小さな音楽5の続き。
部屋に戻ろうと廊下を歩いていたミクが何気なく視線を廊下の奥に向けると、窓辺にたたずむルカがいた。
「外なんて見つめてどうしたの。そろそろ寝る時間だよ」
二階の廊下を突き当たると窓があり、ここからは庭と夜空がよく見える。ミクも真夜中に一人ここに立ち、ぼーっとすごす事があった。しかし、今日はもう眠かったので、早々に寝ようと思っていたのだ。それを曲げてこんなところにいる彼女に話しかけたのは、辛そうにしている感じを、彼女の背中から受けたからである。
振り向いたルカは思いつめた顔をしていた。
「どうしたの」
今度は、声のトーンを少し低くして、真剣な顔で聞いた。
ずっと不仲だった相手で、最近でも喧嘩ばかりだが、嫌ってはいない。喧嘩ばかりしているのは、単に意見が合わないだけだ。
ミクの問いかけにルカはまだ黙っている。
「だ、黙ってないで話してよ。そりゃ頼りになるかどうかはわかんないけど、そんなところで暗い雰囲気に浸ってたって何にもならないから」
沈黙に耐え切れない、そんな風にミクは早口に喋る。すると、ルカはうつむき、その瞳を髪の影で隠した。
そしていよいよ、静かに口を開いた。
「鈴木博士は、わたくしの事を嫌っているのでしょうか」
思わず、驚いた顔のミクが聞き返してしまう。
「嫌ってる、の?」
ルカは首を振った。服を掠めたピンク色の髪の毛が、パサパサと音を立てた。
「わかりません。ですが、わたくしの事を思っている風には……」
そうは見えないとルカは言うのだ。
ミクは、研究所に来てからの鈴木博士の行動を思い出していた。
いつもしかめっ面で、不機嫌そうにしている彼は、ルカが練習している時は大抵それを見ている。ミクには監視しているように見えるが、本心がどうかは知らない。他の時は大方、割り当てられた部屋に篭って研究をしているようだ。あと出てくる時は、食事の時と、それから送り迎え当番の時と、それから……ミクが覚えている限りはそれくらいだ。
多分、練習を監視しているように見えるのが、ルカの発言の原因だろうとミクは思った。
「なんか、いっつも不機嫌そうにして練習見てるよね」
「ええ、ですから、その……やり辛いのです」
厳しい人だとは聞いていたが、それにしてもあんまりだ。練習の時意外は積極的に顔を合わせようとしないし、ルカに厳しいのか、放置しているのか、迷うところである。
とにかく、山田博士や田中博士とは違うタイプだというのはわかる。山田博士や田中博士、それにこの研究所の所員の多くは、ミクたちと積極的にコミュニケーションを図ろうとする。とてもやさしく接し、黙って睨んでいるなんて事は全くない。
眉間を指で押さえたルカは、ため息をついた。あまりの違いに、ルカはかなり参っているらしい。
「もしかしたら、わたくしはどこか壊れているのかもしれません。まさか、担当して頂いた鈴木博士をそのように思うなど……なんて事を。これでは他の人に何も言えません……」
「ハ、ハハ、そんな事ないと思うけど……」
彼女がとても憂鬱そうに言ったので、ミクは乾いた笑顔を返して慰めるしかないのだった。
ミクとルカがそんな会話をした次の日、メイコは雑誌の取材を受けた後、ルカと合流して研究所に戻る予定だった。
そのルカの仕事は長引いているようで、まだ待ち合わせ場所に来ない。今日は新曲の打ち合わせだったはずで、確かに長引く事が多い仕事だ。
もう五月も中旬なのに、博士もカイトも所長も戻ってきていない。そろそろだと田中博士が言うようになってから結構経つのにだ。
メイコは鈴木博士の言葉を思い出して肩を落とした。
山田博士たちが帰ってこないのは、メイコたちのせいだと言っていた。
(私たちが‘見て’しまったからだ。でも……私たちは何を見たのかも思い出せなくなっている。何をしていたのかも記憶がない……)
アンドロイドが見ただけで卒倒するものなど少ないはずだ。何か、性的な事象、しかも自分たちに大きく関わるものを見てしまったのだろう。それはわかっていたが、具体的にはまったく覚えがない。
そして、どうして見る事になったのかをさっぱり思い出せないのが、メイコにとって重大だった。自分たちのせいだと言うのなら、せめて何をしていたのかを記憶していたかった。
思考が空回りしている。無駄ばかりしている機械の脳に活を入れようと、メイコは額を軽く叩いた。
(……頼りにならないわね、私も)
頼れる姉だと言う自負があった。妹たちと弟たちに手を差し伸べる事くらいは出来ると思っていた。
それが違ったのだ。博士と所長に迷惑をかけたどころか、窮地に追い込んでいると言う。カイトも、メイコたちのせいで、廃棄の可能性が出てきたらしいのだ。
不甲斐ない、力不足、失敗した、謝らなきゃいけない……言葉が泡のように浮かんでは消えていく。
もう一度ため息をついた。不毛だ。
空を見上げると、小さい星が一つだけ見える。一番星というやつだろう。ロマンチックなものが見えて少しうれしくなったが、同時にそんな時間になっていた事に驚いた。
雲はほとんどなく、今日は星空がきれいに見えるだろう。そろそろ夏に近づき、暖かい五月らしい空気だ。
にも関わらず、生暖かい風が吹いた時、メイコの背筋がぶるりと震えた。嫌な感じだ。
(遅すぎる。何かあったのかしら)
予感は嫌なものほど当たる。メイコも例に漏れなかった。
ルカは周りを見渡し、どうしようと考えた。
取材が終わり、待ち合わせ場所に行こうとオフィスビルが並ぶ通りに出た。
いつもならそこからタクシーかバスか電車か、つまり他人の目があるような移動手段を選ぶのに、今日に限って徒歩で移動しようと思った。近かったからもあるが、鈴木博士の事や他の事について、少し考える時間が欲しかった。だから徒歩を選んだ。
そして、途中で話しかけられた。それは普段でもよくある事で、サインを求められたり、写真を撮ったりも、大事な仕事の一種である。しかし今回は普段と違った。それを怪しまなかったのがまずかったのかもしれない。
とにかく、話しかけられて、相手が言う通り、探し物を手伝って路地裏に入ってしまった。
そして今、男数人に囲まれている。
何か、嫌な気分になる笑みを浮かべて喋っている。口が動いているし、音も聞こえている。
だが、ルカは先程から聞こえていない。いや、聞こえている。だか聞こえない。懸命なる機械の脳は、男たちの言葉を理解する事を拒んでいる。
わけもわからず、逃げたいと思っている。ずっと、脱出しなければと思考している。同時に、片隅で人間を傷つけてはいけないと言う思考が離れない。逃げようという意思を打ち消すように、ボーカロイドならば敵対してはならないと考えている。
しかし自分の身を守らなければとルカは考えた。
そしてふと浮かぶ。そういえば、守らなければと思うのはなぜだろう。なぜ、危険だと思うのだろう。ここが、この男たちが危険だと、どうして感じているのだろうか。
いやわかっている。危険なのだ。いいやわからない。だが危険だ。
回避しなければ、とにかく、逃げて、しかし相手は人間だ。傷つける事も、敵意を剥き出しにして敵対する事も出来ない。ボーカロイドだから、だから自分の身も守らなければ、しかし人間と敵対は出来ない。
混乱している。明らかに混乱している。脳は依然、まわりの状況を明確に理解する事を拒んでいる。
聞こえない。聞こえているはずなのに、音が聞こえない。
ひどく恐ろしいと意識した。恐れを覚えている事を、はっきりと自覚した。
視界が、うすぼんやりと靄が発生したかのように曖昧になっていく。世界が震えているような気がしたが、震えているのは身体だ。
誰か助けてと、震える身体が勝手に声を発した。他の音も聞こえているが、今、その音だけが理解できる言葉だった。ルカ自身の声が、ルカの耳に、脳に届く。
近づいてくる。一歩下がろうとしたが後ろにも人がいる。下がれない、逃げれない。
天を仰いで叫んだ。声にもならず、祈りは宙に消えていく。近づくものたちへの恐怖は、ルカの切実な願いを一層深く、一層強いものへ促す。
怖い、怖い、怖い、怖い、……助けて!
恐ろしさから目を瞑ると、まぶたの裏に光が見えた気がした。
そして、耳に、ルカを呼ぶ声が聞こえてきたのだ。知っている。この声の主を、必死にルカを呼ぶ声の主を知っている。起動してから何度も、何度も聞いたのだ。
声からその顔が浮かぶ。いつもしかめた表情をして、不機嫌を隠そうともしない。居丈高な態度で、他のボーカロイドたちは少し気おされていて、ルカは昔からで慣れていたはずだったが、最近はルカも苦手意識を持っている、あの人だ。
「鈴木博士!」
目を見開いて、大声で叫ぼうとして口をふさがれた。もがくと手足を後ろにいる二人の男につかまれた。羽交い絞めされた格好である。
博士が見えた。どうしてあの人がここにいるのだろう。ここにいるなどとは連絡していない。徒歩を使う事も、他人に誘われてここにいる事も知りようがないはずなのに、確かに目の前には鈴木博士の姿があるのだ。
周りの男も博士を見つけ、ルカとの間を分かつように壁が出来た。
声が聞こえる。博士の声が、周りの男たちの声が聞こえる。口論しているように見えるが、意味はわからない。わかってはいけないという事だけがわかる。
動けないもどかしさが胸をいっぱいにする。どうしようと思考する横で、逃げなければと言う言葉が浮かんだ。それとほぼ同時に、助けなければと思ったが、具体的な思考まで届かないのだ。
惑っている内に時間は無常にも過ぎていく。混乱する機械の脳がスローモーションにして見せた光景に、ルカは凍りついた。
拳が襲い掛かり、音を立てて鈴木博士はコンクリートの地面に倒れこんだ。背中から叩きつけられ肩を抑えている。周りの男たちは一切容赦しない。次の、蹴りを食らわせた時の大きな音で、ルカは金縛りが解けた。
力を振り絞る。手を前に出して走り出そうとしたが四本の腕が封じようとする。暴れ始めたルカは力任せに押さえつけられたため、前のめりになったバランスを崩した。無様な音が身体とコンクリートが接触した事を告げた。ひんやりとした黒に近い鼠色の向こうに、何人もの人間に暴行を受ける博士が見える。
泣きそうになった。不当な暴力に、他者の下卑た笑い声に、最低の行いに、ルカは泣きそうな程の怒りを覚えた。
それでも最大の出力を出す事が出来ない。どんなにがんばっても、彼らを今すぐどかして、鈴木博士を助けるは出来ない。
大きな力に対してのカウンターは大きくなる。だからこそ、アンドロイドは強大な暴力への反撃こそ出来ない。相手である人間を殺す可能性が高くなるからだ。
今、多人数の相手に抵抗しようとすれば、ルカ自身の力で人間を殺してしまうかもしれない、その可能性の高さ故に、ルカは涙を浮かべながら叫ぶしかなかった。身体を地面に押さえつけられ、声を出しにくい状態であっても、ルカはひたすら彼の名前を呼んだ。
苦手になっていた、だとしても、ルカに教育を施した人物だったのだ。必死に叫ぶくらいに、彼に感謝していたし、尊敬していたのだと、ルカは自身の涙で自覚した。
(誰か、誰か、誰か、誰か、誰か!)
すぐ後に聞こえてきた数人の足音に、ルカは全く気が付かなかった。それほど彼女は必死だった。
次:うつむいた彼女は沈黙した
「外なんて見つめてどうしたの。そろそろ寝る時間だよ」
二階の廊下を突き当たると窓があり、ここからは庭と夜空がよく見える。ミクも真夜中に一人ここに立ち、ぼーっとすごす事があった。しかし、今日はもう眠かったので、早々に寝ようと思っていたのだ。それを曲げてこんなところにいる彼女に話しかけたのは、辛そうにしている感じを、彼女の背中から受けたからである。
振り向いたルカは思いつめた顔をしていた。
「どうしたの」
今度は、声のトーンを少し低くして、真剣な顔で聞いた。
ずっと不仲だった相手で、最近でも喧嘩ばかりだが、嫌ってはいない。喧嘩ばかりしているのは、単に意見が合わないだけだ。
ミクの問いかけにルカはまだ黙っている。
「だ、黙ってないで話してよ。そりゃ頼りになるかどうかはわかんないけど、そんなところで暗い雰囲気に浸ってたって何にもならないから」
沈黙に耐え切れない、そんな風にミクは早口に喋る。すると、ルカはうつむき、その瞳を髪の影で隠した。
そしていよいよ、静かに口を開いた。
「鈴木博士は、わたくしの事を嫌っているのでしょうか」
思わず、驚いた顔のミクが聞き返してしまう。
「嫌ってる、の?」
ルカは首を振った。服を掠めたピンク色の髪の毛が、パサパサと音を立てた。
「わかりません。ですが、わたくしの事を思っている風には……」
そうは見えないとルカは言うのだ。
ミクは、研究所に来てからの鈴木博士の行動を思い出していた。
いつもしかめっ面で、不機嫌そうにしている彼は、ルカが練習している時は大抵それを見ている。ミクには監視しているように見えるが、本心がどうかは知らない。他の時は大方、割り当てられた部屋に篭って研究をしているようだ。あと出てくる時は、食事の時と、それから送り迎え当番の時と、それから……ミクが覚えている限りはそれくらいだ。
多分、練習を監視しているように見えるのが、ルカの発言の原因だろうとミクは思った。
「なんか、いっつも不機嫌そうにして練習見てるよね」
「ええ、ですから、その……やり辛いのです」
厳しい人だとは聞いていたが、それにしてもあんまりだ。練習の時意外は積極的に顔を合わせようとしないし、ルカに厳しいのか、放置しているのか、迷うところである。
とにかく、山田博士や田中博士とは違うタイプだというのはわかる。山田博士や田中博士、それにこの研究所の所員の多くは、ミクたちと積極的にコミュニケーションを図ろうとする。とてもやさしく接し、黙って睨んでいるなんて事は全くない。
眉間を指で押さえたルカは、ため息をついた。あまりの違いに、ルカはかなり参っているらしい。
「もしかしたら、わたくしはどこか壊れているのかもしれません。まさか、担当して頂いた鈴木博士をそのように思うなど……なんて事を。これでは他の人に何も言えません……」
「ハ、ハハ、そんな事ないと思うけど……」
彼女がとても憂鬱そうに言ったので、ミクは乾いた笑顔を返して慰めるしかないのだった。
ミクとルカがそんな会話をした次の日、メイコは雑誌の取材を受けた後、ルカと合流して研究所に戻る予定だった。
そのルカの仕事は長引いているようで、まだ待ち合わせ場所に来ない。今日は新曲の打ち合わせだったはずで、確かに長引く事が多い仕事だ。
もう五月も中旬なのに、博士もカイトも所長も戻ってきていない。そろそろだと田中博士が言うようになってから結構経つのにだ。
メイコは鈴木博士の言葉を思い出して肩を落とした。
山田博士たちが帰ってこないのは、メイコたちのせいだと言っていた。
(私たちが‘見て’しまったからだ。でも……私たちは何を見たのかも思い出せなくなっている。何をしていたのかも記憶がない……)
アンドロイドが見ただけで卒倒するものなど少ないはずだ。何か、性的な事象、しかも自分たちに大きく関わるものを見てしまったのだろう。それはわかっていたが、具体的にはまったく覚えがない。
そして、どうして見る事になったのかをさっぱり思い出せないのが、メイコにとって重大だった。自分たちのせいだと言うのなら、せめて何をしていたのかを記憶していたかった。
思考が空回りしている。無駄ばかりしている機械の脳に活を入れようと、メイコは額を軽く叩いた。
(……頼りにならないわね、私も)
頼れる姉だと言う自負があった。妹たちと弟たちに手を差し伸べる事くらいは出来ると思っていた。
それが違ったのだ。博士と所長に迷惑をかけたどころか、窮地に追い込んでいると言う。カイトも、メイコたちのせいで、廃棄の可能性が出てきたらしいのだ。
不甲斐ない、力不足、失敗した、謝らなきゃいけない……言葉が泡のように浮かんでは消えていく。
もう一度ため息をついた。不毛だ。
空を見上げると、小さい星が一つだけ見える。一番星というやつだろう。ロマンチックなものが見えて少しうれしくなったが、同時にそんな時間になっていた事に驚いた。
雲はほとんどなく、今日は星空がきれいに見えるだろう。そろそろ夏に近づき、暖かい五月らしい空気だ。
にも関わらず、生暖かい風が吹いた時、メイコの背筋がぶるりと震えた。嫌な感じだ。
(遅すぎる。何かあったのかしら)
予感は嫌なものほど当たる。メイコも例に漏れなかった。
ルカは周りを見渡し、どうしようと考えた。
取材が終わり、待ち合わせ場所に行こうとオフィスビルが並ぶ通りに出た。
いつもならそこからタクシーかバスか電車か、つまり他人の目があるような移動手段を選ぶのに、今日に限って徒歩で移動しようと思った。近かったからもあるが、鈴木博士の事や他の事について、少し考える時間が欲しかった。だから徒歩を選んだ。
そして、途中で話しかけられた。それは普段でもよくある事で、サインを求められたり、写真を撮ったりも、大事な仕事の一種である。しかし今回は普段と違った。それを怪しまなかったのがまずかったのかもしれない。
とにかく、話しかけられて、相手が言う通り、探し物を手伝って路地裏に入ってしまった。
そして今、男数人に囲まれている。
何か、嫌な気分になる笑みを浮かべて喋っている。口が動いているし、音も聞こえている。
だが、ルカは先程から聞こえていない。いや、聞こえている。だか聞こえない。懸命なる機械の脳は、男たちの言葉を理解する事を拒んでいる。
わけもわからず、逃げたいと思っている。ずっと、脱出しなければと思考している。同時に、片隅で人間を傷つけてはいけないと言う思考が離れない。逃げようという意思を打ち消すように、ボーカロイドならば敵対してはならないと考えている。
しかし自分の身を守らなければとルカは考えた。
そしてふと浮かぶ。そういえば、守らなければと思うのはなぜだろう。なぜ、危険だと思うのだろう。ここが、この男たちが危険だと、どうして感じているのだろうか。
いやわかっている。危険なのだ。いいやわからない。だが危険だ。
回避しなければ、とにかく、逃げて、しかし相手は人間だ。傷つける事も、敵意を剥き出しにして敵対する事も出来ない。ボーカロイドだから、だから自分の身も守らなければ、しかし人間と敵対は出来ない。
混乱している。明らかに混乱している。脳は依然、まわりの状況を明確に理解する事を拒んでいる。
聞こえない。聞こえているはずなのに、音が聞こえない。
ひどく恐ろしいと意識した。恐れを覚えている事を、はっきりと自覚した。
視界が、うすぼんやりと靄が発生したかのように曖昧になっていく。世界が震えているような気がしたが、震えているのは身体だ。
誰か助けてと、震える身体が勝手に声を発した。他の音も聞こえているが、今、その音だけが理解できる言葉だった。ルカ自身の声が、ルカの耳に、脳に届く。
近づいてくる。一歩下がろうとしたが後ろにも人がいる。下がれない、逃げれない。
天を仰いで叫んだ。声にもならず、祈りは宙に消えていく。近づくものたちへの恐怖は、ルカの切実な願いを一層深く、一層強いものへ促す。
怖い、怖い、怖い、怖い、……助けて!
恐ろしさから目を瞑ると、まぶたの裏に光が見えた気がした。
そして、耳に、ルカを呼ぶ声が聞こえてきたのだ。知っている。この声の主を、必死にルカを呼ぶ声の主を知っている。起動してから何度も、何度も聞いたのだ。
声からその顔が浮かぶ。いつもしかめた表情をして、不機嫌を隠そうともしない。居丈高な態度で、他のボーカロイドたちは少し気おされていて、ルカは昔からで慣れていたはずだったが、最近はルカも苦手意識を持っている、あの人だ。
「鈴木博士!」
目を見開いて、大声で叫ぼうとして口をふさがれた。もがくと手足を後ろにいる二人の男につかまれた。羽交い絞めされた格好である。
博士が見えた。どうしてあの人がここにいるのだろう。ここにいるなどとは連絡していない。徒歩を使う事も、他人に誘われてここにいる事も知りようがないはずなのに、確かに目の前には鈴木博士の姿があるのだ。
周りの男も博士を見つけ、ルカとの間を分かつように壁が出来た。
声が聞こえる。博士の声が、周りの男たちの声が聞こえる。口論しているように見えるが、意味はわからない。わかってはいけないという事だけがわかる。
動けないもどかしさが胸をいっぱいにする。どうしようと思考する横で、逃げなければと言う言葉が浮かんだ。それとほぼ同時に、助けなければと思ったが、具体的な思考まで届かないのだ。
惑っている内に時間は無常にも過ぎていく。混乱する機械の脳がスローモーションにして見せた光景に、ルカは凍りついた。
拳が襲い掛かり、音を立てて鈴木博士はコンクリートの地面に倒れこんだ。背中から叩きつけられ肩を抑えている。周りの男たちは一切容赦しない。次の、蹴りを食らわせた時の大きな音で、ルカは金縛りが解けた。
力を振り絞る。手を前に出して走り出そうとしたが四本の腕が封じようとする。暴れ始めたルカは力任せに押さえつけられたため、前のめりになったバランスを崩した。無様な音が身体とコンクリートが接触した事を告げた。ひんやりとした黒に近い鼠色の向こうに、何人もの人間に暴行を受ける博士が見える。
泣きそうになった。不当な暴力に、他者の下卑た笑い声に、最低の行いに、ルカは泣きそうな程の怒りを覚えた。
それでも最大の出力を出す事が出来ない。どんなにがんばっても、彼らを今すぐどかして、鈴木博士を助けるは出来ない。
大きな力に対してのカウンターは大きくなる。だからこそ、アンドロイドは強大な暴力への反撃こそ出来ない。相手である人間を殺す可能性が高くなるからだ。
今、多人数の相手に抵抗しようとすれば、ルカ自身の力で人間を殺してしまうかもしれない、その可能性の高さ故に、ルカは涙を浮かべながら叫ぶしかなかった。身体を地面に押さえつけられ、声を出しにくい状態であっても、ルカはひたすら彼の名前を呼んだ。
苦手になっていた、だとしても、ルカに教育を施した人物だったのだ。必死に叫ぶくらいに、彼に感謝していたし、尊敬していたのだと、ルカは自身の涙で自覚した。
(誰か、誰か、誰か、誰か、誰か!)
すぐ後に聞こえてきた数人の足音に、ルカは全く気が付かなかった。それほど彼女は必死だった。
次:うつむいた彼女は沈黙した
PR