『アンドロイドは電気羊の夢をみるか』文章保管用ブログ。
Posted by ささら - 2010.01.05,Tue
レンと黒のジャケット1の続き。
人とは思えない美貌の中で、異質な空白、真っ暗な空間。そこにあったはずのものがない証拠に、視神経の役割を果たす数本の細いケーブルが、千切られ芯を剥き出しにされた状態で確認できる。完全に右の目玉部分がなく、目玉がある事前提で設計された瞼の縁は、へこんで奇妙な形になっていた。
ぽかんと口を開け、レンはそのアンドロイドの顔に見とれた。まじまじと見る事が失礼だとすぐに気が付き、慌てて謝る。
「ご、ごめんっ」
彼女は何の反応もしなかった。空洞ではない方の瞳をぼんやりとレンに向けているだけだった。
レンは金縛りにあった如く動けなくなった。通り道の途中であるというのも理由だが、ショッキングなものを見てしまったのが大きい。アンドロイドがひどく傷ついている姿を見るのは二回目だが、見ず知らずのアンドロイドに関しては初めてだ。知り合いなら、怒って、引っ叩いて、それで済んだ。だが知らない相手では、ひたすら困惑する思考を持て余すばかりである。
見詰め合う二人の静寂を打ち破ったのは、扉を開く音と、ただ一人の足音だった。アンドロイドの女がいるすぐ横の扉が開き、人間がぬっと現れた。白の混じった黒い髪は量が少なく、年齢をうかがわせる。恰幅は程良いが、やたらと腹の下部だけが出っ張っていた。
どこかで見た事あるなと思い、記憶を探る。すぐに思い当たったのは幸運だったのだろうか、レンは気が付いてしまった。彼は、カイトや博士から気をつけろと警告されていた人物、リンを狙っていたと言うプロデューサーだ。
知覚した事実へ驚きの声を出す前に、彼は粗野な足取りで彼女のすぐ近くまで来ると、レンを一瞥した。
「貴様、勝手に何をしている!」
男の大声が響き渡り、何を思ったのか即座に片手を振り上げげ、アンドロイドの女の顔を易々と覆う程の大きさが、乱暴に振り下ろされる。風を切る音と、高く鈍い音が鳴る。数拍後、彼女の頭部が壁にぶつかる音と、か細い悲鳴が遅れてやってきた。
レンの目が見開かれる。驚愕で声も出ない。
目撃者には目もくれず、壁にもたれて頭部を庇う彼女に対し、男は更に暴力を振るう。今度は髪を掴み、力任せに壁へと叩きつけた。アンドロイドの硬い骨格は、コンクリートとぶつかって表現しようのない嫌な音を発している。二度、三度、それを繰り返し、無力なアンドロイドが膝から崩れ落ちて、やっと止まった。申し訳ありませんと、鈴のような声が、座り込んだ彼女の口から聞こえた。
それを見て、レンの思考は沸点を軽々と越えた。ぐつぐつと音を立てて煮えたぎり、すぐに男に掴みかかろうとしたのだ。
しかし、動けなかった。
アンドロイドは、主人かあるいは自らに危害が加えられない限り、人間を攻撃する事ができない。アンドロイド同士でさえ、余程の衝動がない限り抑制されてしまう。ひと相手に、できるわけがないのだ。
理不尽な謝罪を弱弱しく告げ、項垂れた彼女を、レンは呆然と見つめるしかできなかった。肩から長い髪が一房滑り落ち、尚更彼女の悲劇性を浮き彫りにする。正義感を煽るには十分だ。しかし、煽られたところで何も出来なかった。
男はレンを省みることなく、階段の方へと歩き出す。彼女は項垂れたまま男の背中を追っていった。左足を随分痛そうに引き摺る様を見て、足を怪我していた事に気がついた。その姿が誰かを一瞬思い浮かばせたが、すぐに霧散したために明確な影にはならなかった。
姿が見えなくなるまで、レンはただ棒立ちのままだった。彼女の背は見えなくなったが、レンはまだ彼らの幻影を追いかけている。
過ぎ去った豪雨は、どうしてか、少ししてから雷雲を呼び寄せた。はじめは、何だあれはと自問しているだけだったが、やがて彼の心はぐるぐるに回りだし、加速がついていった。
理不尽だ、かわいそうだ、どうしてそんな事するんだ、そんな思考が、レンの精神回路を激しく揺さぶりだして、レンはすっかり自分の世界に入ってしまった。行かせるんじゃなかった、ああ、オレが止めなきゃいけなかったんだ、彼女を助けるべきだったんだ、追いかけよう、まだ間に合うのだから。
彼はその自己満足的な思考にすっかり嵌ってしまった。追いかけるべしと言われた気がしたが、彼の妄想である。頭の中には、とにかく助けたいという文字で満杯だった。
少し走った先で、脳内の文字を押しのけるほどの人物に、運の悪い事に出会ってしまい、急ブレーキをかける。赤に近い茶髪、少しだけピンク掛かった無地のシャツに落ち着いた赤いスカート。朝に見た時と同じ格好だ。
「メイコ姉!今日はオフじゃ」
「急に仕事が入って、その帰りよ。どうせならレンと合流して、その後ショッピングでもしようと思って」
「ショッピング?」
いいのかと聞く前に、メイコが答えをくれた。研究所の警備員の一人に、無理言ってついてきてもらっているらしい。なるほど、今までもガードマンをつければ気軽に外出できたのか。その警備員はトイレだそうだ。レンは一瞬にして頼りなく感じてしまった。
はっと気がついた。この廊下はほぼ一本道だ。先程の二人を、メイコは見ているだろう。
「メイコ姉、女のアンドロイドと、男が通らなかったか?」
「通ったわよ。何かあったの?あれ、前に博士たちが言ってた、危ないって話のプロデューサーよね。アンドロイドを何度も壁にぶつけたりして、彼女、かわいそうだったわ」
なんだって、と、レンは咎める。
「それ、どうしてそのまま行かせたんだ」
「正当な理由があるかもしれないわけだし。それにレンだってスルーしたわけでしょ?」
「そうだけど、あんなの許しちゃいけないだろ」
「じゃあどうするの。彼女の手を引いて逃げてみる?できないでしょう、彼女はあの男が管理しているのよ」
非常に忌々しいとばかりにレンは奥歯を噛む。歯はギリギリと音を立てた。外部の人間だ、どうしようもない。それでも、許せなかった。
「博士に言う」
咄嗟に、いつも頼っている相手の名前が出てきたのは、信頼の証だろう。しかし、悪手である事はレンにもすぐわかった。口に出してしまった事を後悔したが既に遅く、素早くメイコにつっこまれる。
「やめなさい。言ったってどうにかできない、博士に迷惑かけるだけよ」
わかっている。それでも、レンの腹はおさまらない。メイコは知らずの内にレンの逆鱗に近づいていた。
「それに、あのプロデューサーに関わるのはやめなさいと、言われ」
「ハイハイって博士の言う事だけきいて、それで良いわけないだろ!」
大声を張り上げたお陰で、メイコが少しだけ身を後ろに引いた。レンは理不尽への怒りを持続させる意思の力があった。彼にとって幸運かはわからないが。
メイコはレンの次の言葉を遮って、言葉を返した。
「レンはすっかり忘れてるわね。私たちは、ボーカロイドよ」
諭すような言葉を、メイコは憮然として言うのだ。火に油を注ぐ形になった。
「だからなんだよ、オレたちはボーカロイドだ。自立した意思を持ってる!」
ボーカロイドは、その意思さえ人工物である。この場にカイトがいればそう言っただろう。だが、この場にいたのはレンとメイコだけだった。メイコは残念そうに首を振るだけである。
「ちくしょう、なんともならないのかよ」
「残念ながら、私たちには」
どうにもならないと悲しい声を響かせた。
ショッピングは延期になった。メイコもレンも、あんなものを見て口論をした後では、楽しげに買い物ができる気はせず、買い物に行くと言ったメイコから、早く帰りましょうと打診する。レンは眉間に皺を寄せたまま頷く。トイレから戻ってきた護衛は、どういう事なのか首を捻っていた。
次:レンと黒のジャケット3
ぽかんと口を開け、レンはそのアンドロイドの顔に見とれた。まじまじと見る事が失礼だとすぐに気が付き、慌てて謝る。
「ご、ごめんっ」
彼女は何の反応もしなかった。空洞ではない方の瞳をぼんやりとレンに向けているだけだった。
レンは金縛りにあった如く動けなくなった。通り道の途中であるというのも理由だが、ショッキングなものを見てしまったのが大きい。アンドロイドがひどく傷ついている姿を見るのは二回目だが、見ず知らずのアンドロイドに関しては初めてだ。知り合いなら、怒って、引っ叩いて、それで済んだ。だが知らない相手では、ひたすら困惑する思考を持て余すばかりである。
見詰め合う二人の静寂を打ち破ったのは、扉を開く音と、ただ一人の足音だった。アンドロイドの女がいるすぐ横の扉が開き、人間がぬっと現れた。白の混じった黒い髪は量が少なく、年齢をうかがわせる。恰幅は程良いが、やたらと腹の下部だけが出っ張っていた。
どこかで見た事あるなと思い、記憶を探る。すぐに思い当たったのは幸運だったのだろうか、レンは気が付いてしまった。彼は、カイトや博士から気をつけろと警告されていた人物、リンを狙っていたと言うプロデューサーだ。
知覚した事実へ驚きの声を出す前に、彼は粗野な足取りで彼女のすぐ近くまで来ると、レンを一瞥した。
「貴様、勝手に何をしている!」
男の大声が響き渡り、何を思ったのか即座に片手を振り上げげ、アンドロイドの女の顔を易々と覆う程の大きさが、乱暴に振り下ろされる。風を切る音と、高く鈍い音が鳴る。数拍後、彼女の頭部が壁にぶつかる音と、か細い悲鳴が遅れてやってきた。
レンの目が見開かれる。驚愕で声も出ない。
目撃者には目もくれず、壁にもたれて頭部を庇う彼女に対し、男は更に暴力を振るう。今度は髪を掴み、力任せに壁へと叩きつけた。アンドロイドの硬い骨格は、コンクリートとぶつかって表現しようのない嫌な音を発している。二度、三度、それを繰り返し、無力なアンドロイドが膝から崩れ落ちて、やっと止まった。申し訳ありませんと、鈴のような声が、座り込んだ彼女の口から聞こえた。
それを見て、レンの思考は沸点を軽々と越えた。ぐつぐつと音を立てて煮えたぎり、すぐに男に掴みかかろうとしたのだ。
しかし、動けなかった。
アンドロイドは、主人かあるいは自らに危害が加えられない限り、人間を攻撃する事ができない。アンドロイド同士でさえ、余程の衝動がない限り抑制されてしまう。ひと相手に、できるわけがないのだ。
理不尽な謝罪を弱弱しく告げ、項垂れた彼女を、レンは呆然と見つめるしかできなかった。肩から長い髪が一房滑り落ち、尚更彼女の悲劇性を浮き彫りにする。正義感を煽るには十分だ。しかし、煽られたところで何も出来なかった。
男はレンを省みることなく、階段の方へと歩き出す。彼女は項垂れたまま男の背中を追っていった。左足を随分痛そうに引き摺る様を見て、足を怪我していた事に気がついた。その姿が誰かを一瞬思い浮かばせたが、すぐに霧散したために明確な影にはならなかった。
姿が見えなくなるまで、レンはただ棒立ちのままだった。彼女の背は見えなくなったが、レンはまだ彼らの幻影を追いかけている。
過ぎ去った豪雨は、どうしてか、少ししてから雷雲を呼び寄せた。はじめは、何だあれはと自問しているだけだったが、やがて彼の心はぐるぐるに回りだし、加速がついていった。
理不尽だ、かわいそうだ、どうしてそんな事するんだ、そんな思考が、レンの精神回路を激しく揺さぶりだして、レンはすっかり自分の世界に入ってしまった。行かせるんじゃなかった、ああ、オレが止めなきゃいけなかったんだ、彼女を助けるべきだったんだ、追いかけよう、まだ間に合うのだから。
彼はその自己満足的な思考にすっかり嵌ってしまった。追いかけるべしと言われた気がしたが、彼の妄想である。頭の中には、とにかく助けたいという文字で満杯だった。
少し走った先で、脳内の文字を押しのけるほどの人物に、運の悪い事に出会ってしまい、急ブレーキをかける。赤に近い茶髪、少しだけピンク掛かった無地のシャツに落ち着いた赤いスカート。朝に見た時と同じ格好だ。
「メイコ姉!今日はオフじゃ」
「急に仕事が入って、その帰りよ。どうせならレンと合流して、その後ショッピングでもしようと思って」
「ショッピング?」
いいのかと聞く前に、メイコが答えをくれた。研究所の警備員の一人に、無理言ってついてきてもらっているらしい。なるほど、今までもガードマンをつければ気軽に外出できたのか。その警備員はトイレだそうだ。レンは一瞬にして頼りなく感じてしまった。
はっと気がついた。この廊下はほぼ一本道だ。先程の二人を、メイコは見ているだろう。
「メイコ姉、女のアンドロイドと、男が通らなかったか?」
「通ったわよ。何かあったの?あれ、前に博士たちが言ってた、危ないって話のプロデューサーよね。アンドロイドを何度も壁にぶつけたりして、彼女、かわいそうだったわ」
なんだって、と、レンは咎める。
「それ、どうしてそのまま行かせたんだ」
「正当な理由があるかもしれないわけだし。それにレンだってスルーしたわけでしょ?」
「そうだけど、あんなの許しちゃいけないだろ」
「じゃあどうするの。彼女の手を引いて逃げてみる?できないでしょう、彼女はあの男が管理しているのよ」
非常に忌々しいとばかりにレンは奥歯を噛む。歯はギリギリと音を立てた。外部の人間だ、どうしようもない。それでも、許せなかった。
「博士に言う」
咄嗟に、いつも頼っている相手の名前が出てきたのは、信頼の証だろう。しかし、悪手である事はレンにもすぐわかった。口に出してしまった事を後悔したが既に遅く、素早くメイコにつっこまれる。
「やめなさい。言ったってどうにかできない、博士に迷惑かけるだけよ」
わかっている。それでも、レンの腹はおさまらない。メイコは知らずの内にレンの逆鱗に近づいていた。
「それに、あのプロデューサーに関わるのはやめなさいと、言われ」
「ハイハイって博士の言う事だけきいて、それで良いわけないだろ!」
大声を張り上げたお陰で、メイコが少しだけ身を後ろに引いた。レンは理不尽への怒りを持続させる意思の力があった。彼にとって幸運かはわからないが。
メイコはレンの次の言葉を遮って、言葉を返した。
「レンはすっかり忘れてるわね。私たちは、ボーカロイドよ」
諭すような言葉を、メイコは憮然として言うのだ。火に油を注ぐ形になった。
「だからなんだよ、オレたちはボーカロイドだ。自立した意思を持ってる!」
ボーカロイドは、その意思さえ人工物である。この場にカイトがいればそう言っただろう。だが、この場にいたのはレンとメイコだけだった。メイコは残念そうに首を振るだけである。
「ちくしょう、なんともならないのかよ」
「残念ながら、私たちには」
どうにもならないと悲しい声を響かせた。
ショッピングは延期になった。メイコもレンも、あんなものを見て口論をした後では、楽しげに買い物ができる気はせず、買い物に行くと言ったメイコから、早く帰りましょうと打診する。レンは眉間に皺を寄せたまま頷く。トイレから戻ってきた護衛は、どういう事なのか首を捻っていた。
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